じじぃの「科学・地球_485_温度から見た宇宙・生命・産業革命・蒸気機関」

ジェームズ・ジュール 羽根車による熱の仕事当量測定装置


ジェームズ・プレスコット・ジュール

ウィキペディアWikipedia) より
ジェームズ・プレスコット・ジュール(James Prescott Joule, 1818年 - 1889年)はイギリスの物理学者。生涯、大学などの研究職に就くことなく、家業の醸造業を営むかたわら研究を行った。
ジュールの法則を発見し、熱の仕事当量の値を明らかにするなど、熱力学の発展に重要な寄与をした。熱量の単位ジュールに、その名をとどめる。
●羽根車の実験とトムソンとの出会い
このような幾たびかにわたるジュールの仕事当量の測定は、相変わらず一般には認められなかった。
1845年、ジュールはまた別の方法で仕事当量の測定を行った。これは、おもりの重さで水中の羽根車を回し、その運動による水の温度上昇を測定するという手法であった。この装置は、温度の変化を華氏0.005度の単位で測定できるという、当時では他に誰も実現できない精度をもっていた。ジュールは1845年以降、この手法で繰り返し測定を行った。

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『温度から見た宇宙・物質・生命――ビッグバンから絶対零度の世界まで』

ジノ・セグレ/著、桜井邦朋/訳 ブルーバックス 2004年発行

第2章 尺には尺を より

蒸気力

熱の本質に関する論争が続いている間に力学的エネルギーと熱エネルギーとの間の実用的なつながりが、蒸気機関の導入を通じて、産業革命の先導役を果たすこととなった。最初、1712年にトマス・ニューコメンによって作りだされ、後にイギリス人により完成された蒸気機関は、工業と流通の世界を一変させた。
イギリスのマンチェスターは18世紀の初めには人口1万人足らずの町で、1769年の時点でも、まだ小さな町にすぎなかった。この年に、ジェームズ・ワットが最初の蒸気機関の特許を取った。そして、この町は急速に、世界の最も重要な都市の1つとなった。リヴァプール経由で運ばれてきたアメリカ産の綿が、マンチェスターで紡がれて、そして、蒸気船で世界中へ送りだされたのである。
蒸気機関の開発でなイギリスに主導権があったけれども、この蒸気機関の驚くほど簡単な原理を初めて公式化したのは、フランス人のサディ・カルノーだった。この仕事で、彼は最終的に、熱力学の第2法則として知られるようになる原理にも到達した。
1824年に、28歳のカルノー蒸気機関の勉強を始めた。彼は、蒸気機関を循環的に作動する機関として模式的にとらえた。水が沸騰し、蒸気が変わり、それがシリンダーへ入ってピストンを押す。ピストンは1往復して、再び元の位置へ戻る。蒸気は冷えて冷却器へ戻され、そこから水は再びボイラーへ戻って行き、そこでまた循環が始まるのである。
カルノーは、蒸気機関は、流れくだる水によってパドルを動かす水車と類似のものだと論じた。水が落下する距離が長くなると、水車が速く回転して仕事の速度が上がる。カルノーが結論したのは、蒸気機関がする仕事の速度が、熱源と熱の捨て場、つまりボイラーと冷却器との間の温度差だけに依存するということであった。温度差は水が水車に落ちこむときの高低差に相当するのである。
カルノーは、蒸気機関がどのように働くのか、完全には見通していなかったし、彼の類推は完全でもなかった。例えば、カルノーは熱は消滅しない、つまり、熱の招待は保存される熱素だと考えた。彼は取りこんだ熱と同じだけの量が解放されるとしたのである。この考え方は当然、彼が描いた水車のイメージに合っていた。ラムフォードによる力学的エネルギーを熱に変える実験によって、熱素は存在しないことが証明されたと思われるかもしれない。だが、この熱素を支持する人たちは、ラムフォードの実験こそ、自分たちの説を証明するものだと考えたのであった。彼らは、ラムフォードの実験を、摩擦が物体から熱素をしぼりだすことにより、熱が生じるのだと解釈したのだった。
35歳でのカルノーの悲劇的な早世(彼はコレラで死んだ)後、間もなく、熱素は存在しないことが徐々に明らかになった。熱はたくさんあるエネルギーの1つにすぎず、いろいろな形のエネルギーの総和は保存されるのである。このことは、熱力学の第1法則として知られるものとなっている。蒸気機関の場合には、ボイラーで取りこまれた熱量は、冷却器により取り去られる熱量に等しくなない。理想的な機関(エンジン)がする仕事は、両者の差に等しいのである。
熱力学の第1法則を立証する最初の”現代的”な実験は、ジェームズ・ジュールというジョン・ドルトンの門下生により実現された。ジュールは、導線を流れる電流が熱を発生することを示した。この実験は、電気と熱を関係していることを示唆した。ジュールは、電流が導線から熱素をしぼりだしたとは考えなかった。
次に、ジュールはラムフォードの実験を改良した。彼は、容器に浸された水掻きが中心の棒につながった、小さな攪拌機を作った。そしてこの棒には、ゆっくりと落下する錘(おもり)が滑車を介して連結された。簡単に言うと、錘が落下すると水掻きが回り、水か攪拌される。ジュールは正確な温度計を用いて、落下していく錘の位置エネルギーの変化により、どれだけの熱が水中に生成されるかを示したのであった。液体を変えて実験をくり返しても、発生する熱量は同じであった。この実験はエネルギーが保存されることを実証するものだと、彼は考えた。熱素は存在し得ないのであった。
1847年に、ウィリアム・トムソンという若いスコットランド人が、この実験に関するジュール本人の講演を聴いた。グラスゴー出身の23歳の教授だったトムソンは、ジュールの主張に当惑した。それはカルノーのアイディアと矛盾するように思われたからである。このアイディアは当時、イギリスではあまり知られていなかったが、パリで研究したことがあったトムソンは、その矛盾をジュールに告げたのであった。そして、彼ら2人に友情が芽生え、熱機関について、何が正しく、何が誤りであるかを協力して考えるようになった。
カルノーと同様にトムソンは、蒸気機関の1サイクルを通じて、流入する熱が流出していく熱に等しいと考えた。2、3のやりとりを通じてジュールは彼に、それが間違いであるおkとを確信させた。だが、彼らは、「1サイクルの仕事」割る「熱の供給量」が、熱源の温度と熱の温度の2つだけによって決まるというカルノーの考えが正しかったことも悟った。
ジュールの実験結果とカルノーの考えを組み合わせことにより、蒸気機関の真の効率――「仕事の出力」割る「熱の入力」――は1(100%)ではないことが明らかとなった。さらに、その効率の減少分は、「捨てられる熱」割る「熱源から流入する熱」、即ち「熱の捨て場の温度」割る「熱源の温度」によって表されることも明らかになった。熱機関の効率が温度差によって決まるというカルノーの見解は正しかったのである。
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効率を100%に等しくするやり方、つまり熱を力学的エネルギーに完全に変換する機械を作る方法はたった1つだけである。それは、熱の取り去り口の温度を絶対零度にするというものである。エネルギーはどんな形をしていても原理的には同じものである。だが、力学的エネルギーは100%の効率で熱エネルギーに変換できるのに対して、熱エネルギーは熱の捨て場の温度が絶対零度の時にしか、100%力学的エネルギーに変換できないのである。もちろん、温度は絶対零度以下にはなりえないのだから、効率が100%以上になることは絶対にないのである。
実用的には、蒸気機関の効率は、熱源と熱の捨て場との間の温度差を大きくすることにより、改善が可能である。熱源の温度は水が水蒸気に変わる点である373度で一定だと思われるかもしれないが、実際は水の沸点は圧力がかかることによって上昇する。ジェームズ・ワットはすでにこのことに気づいていた。彼の蒸気機関になされた改良の1つは、圧力をかけて蒸気を作りだすことであった。

エネルギーの単位は、ジュールと呼ばれており、導線内に生じる熱はジュール熱と呼ばれている。ゼロ度Cを273度と定義した温度の目盛りは、ケルビンと呼ばれている。どうしてケルビンなのだろうか。晩年、ウィリアム・トムソンは科学と公職におけるすぐれた業績で、1892年に貴族に列せられ、ケルビン卿という称号をもつようになったからである。