じじぃの「人の死にざま_832_山田・長」

山田長政 - あのひと検索 SPYSEE
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タイ映画 山田長政 試写会 @BANGKOK yamada nagamasa  動画 YouTube
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タイ式劇の決定版! タイ式イベント 静岡県山田長政祭2010 動画 YouTube
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歴史ドキュメント 「シャムの英雄・山田長政の謎」 1987年2月14日 NHK
1610年代にこつ然と歴史に現われそして消えた山田長政は、海外に雄飛した傭兵隊長として伝えられて来たが、オランダなどの海外資料によると長政の実像はアジアを縦横に駆け巡った大貿易家でもあった。
しかし、山田長政は1630年、シャムの政争にまきこまれ毒殺され、同時にアユタヤ日本人町も焼き払われ、シャムでの日本人の貿易活動はあっけなく消え去った。
長政たちはタイで一体どのように活動したのか。日本とタイの記録を徹底的に検証しながらさぐっていく。
http://nhk.jp/chronicle/?B10001200998702140130068
山田長政 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山田長政(やまだながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門
【人物伝】
出生は駿河国駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤ郊外の日本人町の頭領となった。アユタヤ王朝の国王・ソンタムの信任を得て、第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。
ソンタム王の死後、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はカラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。

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『日本史深訪 第7集』 海音寺潮五郎/著 角川書店 1973年発行
山田長政 【執筆】陳舜臣 (一部抜粋しています)
≪シャムにおける山田長政の行動は、長い間謎に包まれていた。その謎を解きほぐす重要な記録が発見されたのは、日本でもタイ(シャム)でもなく、オランダであった。
その記録は、俗に『シャム革命史話』といわれる報告書で、オランダのハーグにある国立中央文書館の膨大なオランダ東インド会社関係文書の中に埋もれていたが、歴史学者岩生成一氏の手によって発見されたのである。
その報告書は、17世紀の中ごろ、アユタヤのオランダ商館長であったエレミヤス・ファン・フリートによって書かれたもので、中にはシャム、アユタヤ王朝の王位継承戦争の顛末(てんまつ)と、それに巻き込まれていった山田長政の悲劇的な最期が記されている。
17世紀初頭のアユタヤは名君とうたわれたソンタム王によって統治されていた。長政はこのソンタム王の信任を得て、しゃむ王室の貴族に任じられ、のち、しだいに立身して王室有数の実力者にのしあがっていったのである。
1628年、ソンタム王は、王位を15歳になる王子に譲ると申し残して世を去った。王の遺命を奉じた長政と、故ソンタム王の重臣オーヤ・カラホーム(のちのプラサトトーン王)は、15歳のジェッター王子を擁立しようとする。
しかし当時のシャムの習慣では、王位を継ぐ者は弟であるとされていたやめ、シャム国内は、亡き王の弟であるシー・シン親王を擁立する一族と、ジェッター王子を擁立するカラホームと長政らの一族に分かれて激しく争うことのなる。
内乱は長政と日本人傭兵隊の奮戦でジェッター王子の勝利に帰し、シー・シン親王とその一族の貴族たちは処刑された。しかし、内乱がおさまったあと長政の盟友カラホームは、みずから王位を望んで、ひそかにジェッター王子を殺害してしまった。残るソンタム王の血筋は、わずか10歳のアチットスラワン王子だけであった。
カラホームは、一時自分が王位につき、幼いアチットスラワン王子が成年に達した時、王位を譲ることにしたいと、長政に申し出るが、長政は、ソンタム王の血統が続くかぎりこれをたてるべきだと、カラホームの申し出を拒絶する。
この結果、10歳のアチットスラワン王子がアユタヤ王となった。しかし、幼い王に政治を執る能力はなく、政治的実権はカラホームのものとなり、長政の立場はしだいに孤立していくことになったのである。
おりしも、マライ半島の中央部、南タイの要地リゴール(六昆)で反乱が起こった。カラホームは謀略をめぐらし、六昆の反乱を武力鎮圧できるのは長政をおいてないと力説し、彼を六昆王に封じ、反乱の鎮圧に向かわしめたのである。
長政は、大半の日本人傭兵隊とともに、六昆におもむくことになった。
この間に、カラホームはアチットスラワン王を暗殺し、ついに待望のアユタヤの王冠を手中にしたのである。≫
 日本人的なモラルをシャムに持ち込んで、少しも疑っていないというところが、長政の特徴ですね。長政の記録というのは、あまりないんですけど、こういうところにその片鱗がうかがわれるわけなんです。
長政は、自分が武力を持っているから、政治にタッチせざるをえなくなりましたけど、本人にはたいして、政治力はなかったと思います。自分がアユタヤの中央政府を離れてしまえばおしまいだということを、政治力のある人なら気がつくはずなんですけど、あまり気がついていないようなところがあります。
       ・
1600年というのは、東アジア争覇のたいへんな年で、長政がアユタヤ日本人町の頭領として活躍した時代は、その直後だったわけです。したがって、アユタヤには世界史の激浪、非常に高い波が当たっていたのですが、その波の高さというものを、長政自身ははっきり知らなかったと思いますね。
≪日本人部隊300人を率いた長政が、アユタヤをあとにはるか南の六昆へとおもむいたのは、1629年(寛永6年)であった。
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『シャム革命史話』によると、1630年(寛永7年)8月、六昆を平定した長政は、戦功に対する恩賞として、アユタヤから送られた財宝や、美しい娘たちを迎え、館で盛大な酒宴を開こうとしていた。この時、傷口につける薬に毒を入れられて殺されたのである。
毒殺の犯人は、いったいだれであったのか。≫

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