『ニンニクのない檀君神話!?①【再】』室谷克実 AJER2013.1.12(3) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_7aS6qsyl7g
紀元前の朝鮮半島
神武天皇生誕の謎
なぜ南九州に神武天皇御誕生までの神々の物語が、集中して伝えられているのであろうか。
『古事記』は、天孫ニニギノミコトが「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天降られた、と記している。この天孫降臨神話は、古朝鮮の檀君(だんくん)神話にきわめてよく似ていることが指摘される。天神が子神に三種の宝器を持たせ、風師、雨師、雲師という三機能神とともに、山上の檀という木のかたわらに降臨させ、朝鮮を開いた、という神話である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/jimmu_tenno.html
朝鮮 ウィキペディア(Wikipedia)より
この地名はすでに紀元前4世紀頃から有った事が確認され、『史記』や『管子』に「朝鮮」という地名に関する記述がある。
その由来について史記の朝鮮列傳では張晏(中国語版)の説で、「朝鮮には湿水、洌水、汕水が有り、3つの川は洌水として合わさる。恐らくここから楽浪朝鮮の名前を取ったと思う。」とされ、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の官選地理書『東国輿地勝覧』によると中国人が朝光鮮麗の地と呼んだためといわれ、さらに、東方(=朝)の鮮卑に由来すると言う説もあり、結論が出ていない。
檀君朝鮮 ウィキペディア(Wikipedia)より
檀君朝鮮は、檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされたという伝説の国の名前。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述から計算して檀君の即位した年を紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。
【内容】
『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク、ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
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『世界神話伝説大系 12 朝鮮の神話伝説』 中村亮平/編 名著普及会 1929年発行
朝鮮の始祖檀君 (一部抜粋しています)
昔、ずっと大昔のことであります。
日本海と黄海とに挟まれている朝鮮半島には、まだ人間もそう多くは住まってはいませんでした。
草や樹が思うままに茂って、丘や野原には、美しい花が咲き乱れていました。南の方へも西の方へも、静かに河が流れて、小鳥たちは実に楽しそうに歌っていました。ときどきは鶴や鷺(さぎ)が静かに翼を伸ばして、空高く舞っていました。そうして秋になると、沢山の秋鳥の群が雁(がん)や鴨(かも)の行列と連なって、北の方からやって参りました。
美しい風が吹いて来ると多くの樹々仲間までも、声を揃えて歌っていました。もとよりまだ人間が少ない頃のことでありましたから、国もなければ王様もありませんでした。
この半島の美しい姿を天のかなたから、いつもいつもお眺めになったいたのは、桓因(かんいん)という王様でありました。すると、桓因の庶子である桓雄という王子がありました。王子は父王にもまして、半島に下って、あの美しい土地を治めてみたいものと、朝な夕なに願っていました。
王子の願いをお聞き入れになった父王は、
「そちがそのように願うならば、あの美しい半島に下って、親しく治めるがよろしい」
そう仰せになって、天符印3個と下臣(けらい)3千人をお授けになって、行って治めるようにとお遣(つかわ)しになりました。
王子の喜びはたとえようもありませんでした。まず王子は、朝鮮の中程にある太白山という高い頂の神壇の樹下にお降りになりました。そして、初めて王位にお即(つ)きになりました。桓雄天皇と申すのがそれであります。
それから王は、風伯、雨師、雲師をお率いになって、穀物を司り、命を司り、病を司り、刑を司り、善悪を司り、およそ人間のありとあらゆる360余のことを司り、この世を治めになりました。
丁度その頃、神壇樹の程近くに大きな岩穴がありまして、その中に1匹の熊と1匹の虎とが仲よく住んでいました。
見ると、不思議にもその熊とその虎が一生懸命になって、王様に祈っていますので、どうしたことかと思って尋ねてみますと、
「はい、こう見えましても、わしたちもどうかして人間になって、何なりとお役に立ちたいと、ただそればかりを念じているのでございます」
と話しながらも、ひたすらに願っているのでありました。
そこで王様は、
「それは殊勝なことじゃ。ではこれを遣わすによってまずこの蒜(にんにく)を食べて、そして百日の間陽光の目を見ぬように、謹しみ深く穴の中に引き籠っておるのじゃ、するとその日限も満たないうちに、ちゃんと人間としてつかわそう」
そう仰せられて、艾(もぐさ)ひとひねりと蒜20球とをお授けになりました。
日頃の願いが叶いましたので、ひどく喜んだ虎と熊は、恭しくそれをおし載いて穴の中に入りました。そして熊も虎も慎み深く引き籠っていましたが、そろそろ倦(あ)きてきた虎はとうとう穴を出てしまいました。しかし、熊は一生懸命に行を積んでいましたので、3721日目には早くも人間に変わって、どう見ても見さかいのつかないような、それはそれは美しい女になっていました。
さあ熊は願い通り人間になってみると、今度はどうかして王様に仕えたくて堪りませんでした。それで毎日壇樹の下に行っては祈っていました。すると、いつかその願いが聞き入れられて、王様のお妃に上がることが出来たのでありました。
二度までも思う願いが叶えられたので、お妃の喜びといったらありませんでした。ただこの上は身も心も尽くして王様のためにすべてを捧げようと、深く心に誓っていました。
月日はいつの間にか過ぎて、お妃は王子を身ごもり、間もなく玉のような御子がお生まれになりました。王様もお妃もたいへんお喜びになって、「檀君」と御命名になりました。
王子檀君がご成人なさると、唐の堯王(ぎょうおう)50年に都を平壌にお定めになって、初めて「朝鮮」と称えることになったのであります。
後に檀君の諱(いみな)を王倹と申しましたので、平壌の都は王倹城ともいわれています。
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そして檀君は、蔵唐京(ぞうとうきん)に遷(うつ)ることになりました。やがて再び阿斯建に帰りますと、ひそかに隠れて山神になって暮らしました。
檀君がそうして朝鮮の国を開きましたので、それからだんだん多くの人が移り住むようになりました。かくも力を尽くした檀君は、その寿(よわい)1908歳にも及んだということであります。