じじぃの「人の死にざま_829_オイラー」

レオンハルト・オイラー - あのひと検索 SPYSEE
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Leonhard Euler 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ShFibvmlMV4
Math 2850 Euler's Formula 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zELiwFCQa1Y
クローズアップ現代 「大人がハマる“数学ブーム”の謎」 2011年7月27日 NHK
【キャスター】国谷裕子 【専門家・ゲスト】サイエンス作家 竹内薫
大人の“数学ブーム”が続いている。出版界では「語りかける中学数学」がこの5年間で10万部を突破。高等数学の世界へ誘う「オイラーの贈物」、「ガロア群論」といった難解な数学の本もそれぞれこの1年で2万部を超える勢いだ。カルチャーセンターや個人塾など社会人向けの数学講座はキャンセル待ちの状態も出ているという。今、多くの大人が数学に求めるもの。それはかつて中高時代に挫折した「何重もの論理の積み上げ」を体感したいという思いや、数学者の「ひらめきの秘密」を知りたいという気持ち。混迷する不安定な社会にあって、確かなものに接したいという願いと、想定外の事態でも進むべき道を切り開ける強さを身につけたいというニーズがあるという。いったい人々は数学にどのような世界を見ているのか? ブームの謎を探りながら、一般社会人をもとりこにする数学の魅力に迫る。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3079
レオンハルト・オイラー 『ウィキペディアWikipedia)』より
レオンハルト・オイラーLeonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。スイスのバーゼルに生まれ、現在のロシアのサンクトペテルブルクにて死去した。
【生涯】
オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、父はオイラーに自分の後を継いで牧師になることを望んでいた。しかしヨハン・ベルヌーイによって才能を見いだされ、オイラー自身の数学への興味もあって数学者になる道を選んだ。1727年に、オイラーサンクトペテルブルクのアカデミーでダニエル・ベルヌーイの同僚となった。この地で、彼はバーゼル問題を解決したことで有名になった。だが、エカチェリーナ1世の突然の死でロシアは政情不安となり、視力の悪化も伴って、研究生活は不安定なものとなった。1741年、プロイセン王国のフリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住。その業績からフリードリヒ2世に「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」と賞賛される(右目を失明していたため)。彼は『無限解析入門』と『微分学教程』という2冊の数学書を出版した。また、オイラーはアルンハルト=デッサウ公女の教育のために科学への入門書を執筆し、その後、『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった。当時ベルリン・アカデミーには、ヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。エカチェリーナ2世が帝位についたことで、オイラーは再びサンクトペテルブルクに戻った。1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を失明したものの、彼は精力的な研究生活を最後まで続けた。
オイラーの公式 『ウィキペディアWikipedia)』より
数学、特に複素解析におけるオイラーの公式(Euler's formula、オイラー恒等式とも)とは、指数関数と三角関数の間に成り立つ等式
 e = cosθ + isinθ
をいう。ここに、θは幾何学的には弧度法に従う角と見なされる実変数である。
また、θ = π のとき、オイラーの等式と呼ばれる
 e + 1 = 0
が導かれる。

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オイラー―その生涯と業績』 エーミール・アルフレート フェルマン/著、山本敦之/翻訳 シュプリンガー東京 2002年発行
第1次ペテルブルグ時代 (一部抜粋しています)
日記の記述がしめすように、オイラーは、大部分の非ロシア人同僚とことなり、自由に書いたり話したりするために、すぐにロシア語の勉強にとりかかっている。彼は新生活にすぐに慣れ、アカデミーのタ方面の活動に、活発に参加している。アカデミーは、重要な国歌機関として、一方でアカデミー附属のギムナジウムや大学で国家の学問上の幹部を養成し、他方、さまざまな技術上の門だ尾を解決し、ロシア帝国およびその自然資源を探査するという、統治上の要請にこたえると言う任務をおびていた。
公式文書のしめすところでは、オイラーは多年にわたって数学・物理学・論理学の講義をおこない、幼年学校における試験で重要な役割をはたしていた。アカデミーにやってくる職人や測量士を試験し、アカデミーの度量衡検定局の重さ試験、商業組合・ペテルブルグ税関・製材所やA・K・ナルトフが創立した消防隊といった種々の事業の評価に参画した。また、オイラーの設計に従って、パパンの原理による蒸気機関が製作された。これだけ重い職責をはたしながら、それでもこの若き学者には、数学的諸学などの主要職務(と同時に、好きな仕事)のための時間が十分残されていた。すでに、1729年の『紀要』(1727年)第2巻には、3篇のオイラーの論文がみられる。1つは相反的な曲線についての純粋数学的研究、2つめは等時曲線について、3つ目は空気の弾性に関する物理的研究である。オイラーは1727年8月5日、科学上の報告(水力学の問題)でペテルブルグ・アカデミーの委員たちに初おめみえしている。オイラーは、当時で最初の年に既にたずさわっていた流体静力学・動力学の研究を、友人のダニエル・ベルヌーイのことを考慮して、しばらく放置した。ダニエル・ベルヌーイはペテルブルグで、後に古典的となった水力学の初稿を、まだ起草している最中だったのである。
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1735年の初めころ、オイラーは深刻な打撃をうけることになる。現代でも正確な診断が不可能な、重い病気にかかったのである。「高熱」症状が現れたと伝えられるこの病気は、1738年にオイラーが右眼を失ったことと内的関連を持つように思われる。この病気が容易ならざるものであったというのは、友人のダニエル・ベルヌーイがオイラーにあてた書簡から知られる。その冒頭は以下のとおりである。「幸いにも健康を回復され、よろこばしく思います。また健康の永からんことを、心より希望します。モウラ氏の書簡によると、あなたがご病気のとき、みながあなたのことを心配していただけでなく、回復の見込みすらなかったということです。私もあなたのご両親も、あなたの完全な治癒が見込まれる以前に、あなたの病気のことを知らなくて、幸でした。数学界もあなたの驚異的な回復をよろこぶべきでしょう」
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1735〜1738年には病状が悪化したけれども、オイラーは想像を絶する勤勉で、多くの分野の研究最前線をおし進めた。「第1次ペテルブルグ時代」には、彼が書いた50以上の論文・著書が出版された。これらは14の分野にまたがる。それらをかいつまんで言うと、代数学(方程式論)、数論(素数ディオファントス解析)、算術、幾何学トポロジー)、微分幾何学(相反的曲線、測地線)、微分方程式級数論(無限級数)、変分法、力学(球面表示、等時曲線、衝突論、弾性論)、船舶論、物理学(空気の弾性、火の性質)、天文学(位置天文学、天体軌道)、潮汐論、音楽論である。

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