じじぃの「人の死にざま_1069_D・ベルヌーイ」

ダニエル・ベルヌーイ - あのひと検索 SPYSEE
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ISAAC P.2 -Daniel Bernoulli 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cL0JaI0Wn_I
宇宙飛行士と考える「ベルヌーイの定理 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=6APNDuW5WaM
ダニエル・ベルヌーイ ウィキペディアWikipedia)より
ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli, 1700年2月9日 - 1782年3月17日)はスイスの数学者・物理学者。
【生涯】
オランダのフローニンゲンに、数学者ヨハン・ベルヌーイの息子として生まれる。伯父としてやはり数学者のヤコブ・ベルヌーイがいる。ダニエルはベルヌーイ家の中では最も才能があり有望であった。そのためか彼と父との関係には緊張が絶えず、パリ大学の科学アカデミーのコンテストでは、ヨハンは自分の息子と比較されることに耐えられず、ダニエルに論文提出を禁止したという。ヨハンは、ダニエルの主著 Hidrodynamica を盗用し、Hidraulica と名を変えて発表しようとした。ダニエルの関係改善の努力もむなしく、父は死ぬまで息子を逆恨みしていた。1725年にはペテルブルク科学アカデミーに数学教授として就任するが、1733年に病気を口実に辞し後任として友人のオイラーを推薦している。同じ年バーゼル大学の植物学・物理学教授となり、その死まで医学・形而上学・自然哲学を教えた。
ベルヌーイの定理 ウィキペディアWikipedia)より
ベルヌーイの定理(英語: Bernoulli's principle)またはベルヌーイの法則とは、非粘性流体(完全流体)のいくつかの特別な場合において、ベルヌーイの式と呼ばれる運動方程式の第一積分が存在することを述べた定理である。ベルヌーイの式は流体の速さと圧力と外力のポテンシャルの関係を記述する式で、力学的エネルギー保存則に相当する。この定理により流体の挙動を平易に表すことができる。ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli 1700-1782)によって1738年に発表された。なお、運動方程式からのベルヌーイの定理の完全な誘導はその後の1752年にレオンハルト・オイラーにより行われた。 ベルヌーイの定理は適用する非粘性流体の分類に応じて様々なタイプに分かれるが、大きく2つのタイプに分類できる。

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『神が愛した天才数学者たち』 吉永良正/著 角川ソフィア文庫 2011年発行
ベルヌーイ一家 (一部抜粋しています)
J・S・バッハの息子たちの中からは優れた作曲家が数多く出て、音楽一家として有名だが、ほぼ同時代に親子4代にわたって数学者を輩出した数学一家があった。スイスのベルヌーイ家である。ベルヌーイ一族はもともとオランダの出身だが、宗教戦争の難を逃れてスイスのバーゼルに移住。その地で大成功をおさめ、街の有力者となったのが、一家の始祖ニコラウス・ベルヌーイであった。ニコラウスには3人の息子がいたが、父親の希望で神学を学んでいた長男のヤコブが、33歳にして数学に目覚めたときから、一家の遺伝子の中に眠っていた数学の才能が開花し始めることになる。
ヤコブを数学へと誘ったのは、ライプニッツが著した「新しい数学」という論文だった。ライプニッツニュートンとは独立に微分積分学を打ち立てた大数学者である(数学者であるだけでなく、哲学者であり、政治家であり歴史家でもあった)。しかも、独自の記号法を発明し、わかりにくい微分の概念を、より簡単に扱えるようにした。ライプニッツの論文を熟読してその新しい演算を自家薬籠(やくろう)中のものとしたヤコブは、バーゼル大学の数学教授となって、当時の未解決問題にこの手法を応用し、18世紀における微分積分学の大発展の基礎を築いた。
ヤコブライプニッツにとりつかれていくうちに、13歳年下の弟ヨハンにも”数学病”が伝染してしまったようである。ヨハンはなかなか問題の多い性格の人物だったとされている。父親はヨハンに家業を継がせたいと思っていたが、まずこれに反抗して医学と古典学を専攻。兄ヤコブが数学に転向すると、ヨハンも兄に負けじと熱心に数学の勉強を始めた。
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ヤコブが1705年に51歳で亡くなると、ヨハンは念願だったバーゼル大学の数学教授の地位を得た。ヨハンには3人の息子があり、いずれも数学者になっている。次男のダニエルは最初、医学を志したが、一族の血が騒いだのか、結局は数学に転向している。しかも優秀な数学者になった。とりわけ、流体力学の研究は有名で、「ベルヌーイの法則」にその名をのこしているが、父ヨハンはここでも問題を起こした。息子の仕事を横どりしてしまったのだ。ダニエルはオイラーへの手紙な中で、こう嘆いている。
「私は10年にわたる辛苦の成果を失いました。私は盗まれてしまったのです。私の『流体力学』のすべての定理がもっていかれました。父がそれを自分の『流体学』に収め、1732年という日付をつけてしまったのです[ダニエルの『流体力学』の出版は1738年]。もう研究はいやになってしまいました」
この悲痛な手紙を受け取った人物、レオンハルト・オイラーこそ、18世紀最大の数学者である。ラプラスの「オイラーを読みたまえ、オイラーを。彼こそ、われわれ皆の師であるのだから」という言葉は有名だ。
牧師になるためにバーゼル大学に入ったオイラーの数学の才能をいち早く見出し、息子を神学の道に進ませたいと思っていた父親を説得して、オイラーに数学を続けさせたのはヨハンの功績である。

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