じじぃの「歴史・思想_111_数学の天才・先駆者・オイラー」

Animation Test: Euler's Formula

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NH_EtbiZJzw

オイラーの公式

ウィキペディアWikipedia

オイラーの公式(Euler's formula)は、変数θ が実数である場合には、右辺は実空間上で定義される通常の三角関数で表され、虚数の指数関数の実部と虚部がそれぞれ角度 θ に対応する余弦関数 cos と正弦関数 sin に等しいことを表す。このとき、偏角 θ をパラメータとする曲線 e は、複素平面上の単位円をなす。
特に、θ = π のとき(すなわち偏角が 180 度のとき)、

  

となる。この関係はオイラーの等式 (Euler's identity) と呼ばれる。

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『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』

イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行

我々すべての師 レオンハルド・オイラー より

●レオンハルド・オイラー(スイス1707~ロシア1783年)
今日、レオンハルド・オイラーは、一般の人々にはほとんど知られていない数学者のなかでも最も重要な人物に挙げられるだろう。しかし生前にはあまりにも名声が高く、1760年。7年戦争でロシア軍がシャロッテンブルグにあるオイラーの農場を破壊すると、イワン・サルティコフ将軍は即座に賠償した。さらにロシアの女帝エリザベータは、当時としては破格の4000ルーブルの賠償金を積み増しした。

ロシアとベルリンでの多産な研究活動

オイラーの父パウルは、バーゼル大学で神学を学び、プロテスタントの牧師になった。母親のマルガレット(旧姓ブルッカー)はプロテスタントの牧師の娘だった。パウルは、大学生のときに下宿させてもらっていた数学者ヤコブ・ベルヌーイの講義を、ヤコブの弟で自分の同級生だったヨハンと一緒に受けている。ベルヌーイ家は典型的な数学一家で、4世代にわたるほぼ全員が、はじめはもって伝統的な進路に進もうとするものの、最終的には数学をやるようになった。
1720年、オイラーは13歳でバーゼル大学の学生となった。
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オイラーは1726年に自身初の論文を書き、1727年にはパリ・アカデミーが毎年開催する大賞に論文を応募した。その年の課題は、帆船のマストの最適な配置を見出すというものだった。優勝したのはこの分野の専門家ピエール・ブゲールだったが、オイラーは第2位を獲得した。この偉業がサンクトペテルブルク・アカデミーの目にとまり、ニコラウス・ベルヌーイが亡くなって欠員がでると、その後任にオイラーが選ばれた。19歳のオイラーは、ロシア目指して7週間の旅に発った。ライン川を船で進み、そこから馬車に乗り、最後は再び船に乗った。
1727年から30年まではロシア海軍の医事副官も務めたが、正教授になると海軍を去り、まもなくアカデミーの終身会員となった。1733年、ダニエル・ベルヌーイがサンクトペテルブルクでの職を辞してバーゼルに帰国すると、オイラーが数学教授としてその後を継いだ。収入が増えて結婚する余裕ができ、地元のギムナジウム(高校)に務める芸術家の娘カタリーナ・グゼルと夫婦の縁を結んだ。子供を13人もうけ(うち8人は赤ん坊のうちに亡くなったが)、赤ん坊を抱いて周りで子供たちを遊ばせながら自身最高の研究を成し遂げたと自ら語っている。

数多くの発見と膨大な業績

オイラーの素晴らしい才能や、多彩で独創的な発見の数々を、1冊の本の一部で伝えるなどほぼ不可能だ。1冊丸ごと使っても難しいだろう。しかし、オイラーの業績の一端をとらえて、その驚異の才能を垣間みることならできる。考え方の流れを崩さないよう年代順は無視して、はじめは純粋数学について紹介し、それから応用数学について説明する。
まず何よりも、オイラーは数式に関する驚くほどの直感力の持ち主だった。1748年に書いた『無限回性入門』では、複素数における指数関数と三角関数の関係式を考察して、
 
という式を導いた。(X=θ)
この式でθ=Πラジアン=180°とすると、eとΠという2つの謎めいた定数、そして虚数iを結びつける
 
という有名な等式がえられる。
e = 2.718……は自然対数の底、iは-1の平方根を表わすためにオイラーが導入した記号で、今日でも標準的に使われている。