じじぃの「人の死にざま_798_吉田・日出男」

スーパーの原点:「行ってきました」シリーズ So-netブログ
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主婦の店 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
主婦の店は、日本のスーパーマーケットの店舗名などにつけられた名称。
日本のスーパーマーケットの端緒である福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)の丸和フードセンター(現・丸和)の社長であった吉田日出男が、中小小売商の生協対策として1957年3月23日に設立したボランタリー・チェーン。吉田は「主婦の店運動」と銘打って全国を飛び回って提携を呼びかけ、この旗印の下で、売り場にレジスターが導入され、セルフサービスを採用したスーパーマーケットが、全国に展開された。シンボルマークとして「風車」を用いていたため、加盟企業のことを「風車系」と呼ぶこともある。
主婦の店全国チェーンは共同のテレビCMや、プライベートブランドの展開を行わないなど、あまりスケールメリットを出す施策を打たなかった。そのため、徐々にダイエーなど独自で全国展開を図る企業や、ニチリウCGCグループ等にも同時に加盟し地区展開を図る企業、ダイエーグループやジャスコグループ(現在のイオングループ)などの大手流通企業グループ傘下に入る企業が多くなった。また、加盟企業と出店エリア協定を取交わしていなかったため、本来は中小小売商の生協対策であったはずが、加盟企業同士による出店競争が激化してしまう自己矛盾に陥る状態となり、終焉をむかえた。
なお、主婦の店全国チェーンは1998年7月に解散したが、店舗ブランドやシンボルマークである「風車」を現在も使い続けている旧加盟企業もある。

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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
真のスーパーの草分け・吉田日出男 (一部抜粋しています)
本来なら戦後流通業界のパイオニアの栄誉を担うべきところなのに、カリスマといわれた男の陰に隠れてすっかり忘れられた悲しき経営者の話である。
世上、わが国初のスーパーは昭和32(1957)年9月23日、中内功が大阪・千林商店街のなかに開店した「主婦の店・ダイエー薬局」だと思われている。
だが、これより約1年前の昭和31年3月10日、北九州の小倉にオープンした総合食品店こそ、わが国スーパーの第1号店だった。店の名は丸和フードセンターといい、それなで日本人にはまったくなじみのなかったセルフサービス方式と、低価格高回転のローコストオペレーション方式をわが国で初めて取り入れた店だった。
店舗面積も、ダイエーの1号店が30坪しかなかったのに対し、丸和フードセンターは120坪と、ずっと大型だった。
それ以上に重要なことは、ダイエーの1号店に”主婦の店”という看板がつけられたことであった。
いまでこそ当たり前のように感じる名前だが、当時とすれば主婦の気持ちをわしづかみする画期的なネーミングだった。このネーミングは、丸和フードセンターが考案したいわば”専売特許”だった。
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丸和マーケットの売上げは、未曾有の食糧難という敗戦直後の状況に支えられて順調に伸びた。だが、日本経済が落ち着きを取り戻しはじめると、かってほどの売上げはあがらなくなった。吉田の前に大きくふさがったのは、戦時中、統制経済の強化によって休止状態に追い込まれた百貨店と生協のめざましい復興だった。
百貨店の売上げは昭和28年には戦前を上回り、これ以降毎年2ケタ代の成長をみせた。また生協は昭和30年に、組合員数で戦前のピークの8倍近くまでふくれあがった。
吉田がそれまでのバラック建てのマーケットをアメリカ流の店舗に大改築したのは、生協と百貨店の躍進が始まったまさにこの時期だった。経済白書が冒頭に「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した昭和31年のことである。
丸和フードセンターでは、肉、野菜、魚の生鮮3品をはじめ、缶詰、味噌、醤油、油、ちり紙、コップ、石鹸まで扱った。3月10日のオープン当初は、客がアメリカ流のセルフサービス方式にとまどい、思ったほど売上げはなかった。だが、この新しい販売方式に客が慣れはじめると、売上げは劇的に伸びた。
とりわけ年末の売上げはすさまじかった。改築前、1日の売上げは平均80万円だったが、12月30日に308万円、31日には418万円という記録的な売上げとなった。ちなみに翌年9月にオープンした”主婦の店・ダイエー”1号店は、その年の大晦日、100万円の売上げをあげたが、丸和の売上げに比べれば、4分の1以下でしかなかった。
丸和フードセンターは、現在のスーパーのプロトタイプをつくった店だった。客が商品を容(い)れる買い物カゴを最初につくったのも、入口と出口を完全に分けたアメリカ流の方式を、入りにくい出にくいという客の苦情を聞いて間口を全面オープン形式にしたのも、丸和が日本で最初だった。
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それから39年後の平成8(1996)年4月10日、東京・青山で84歳の老人がひっそりと息を引き取った。5日後に行われた葬儀には、ごく近親の者しか参列しなかった。それが日本で初めてスーパーをつくった吉田日出男の最後だった。
吉田の死は新聞も一切、取り上げなかった。さまざまな”日本型スーパー”のノウハウを開発し、”主婦の店”運動を起こして全国の小売業者に強烈な感銘と衝撃を与えた吉田は、先駆者の栄光と悲惨という常套文句そのままに、華々しいスポットライトを独り占めしていった中内とは対照的に、歴史のなかに溶暗していったのである。