じじぃの「人の死にざま_790_M・タイラー」

マックス・タイラー - あのひと検索 SPYSEE
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Histopathology Liver--Hepatitis, yellow fever virus 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YvraLxq6S8w
Yellow fever and Max Theiler: the only Nobel Prize for a virus vaccine
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2118520/
野口英世が1928年に黄熱病の研究で、自身が黄熱病にかかり死んでしまいました 2008/4/28 Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1416083739
マックス・タイラー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マックス・タイラー(Max Theiler、1899年1月30日 - 1972年8月11日)は、南アフリカ共和国のウイルス学者で、黄熱ワクチンの開発により、1951年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
【略歴】
南アフリカ共和国プレトリアで、獣医で微生物学者であるアーノルド・タイラー(ドイツ系)の息子として生まれた。彼はプレトリア男子高校、ローデス大学を経て、1918年にケープタウン大学医学部を卒業し、さらに研究を続けるため南アフリカを離れロンドンに移った。1922年、彼は熱帯医学、衛生学を修めて卒業し、ロンドンの王立内科医大学と王立外科医大学の修士となった。さらに研究を進めるため、タイラーはハーバード大学熱帯医学部の教職員となり、アメーバ性赤痢の研究や鼠咬症のワクチンの開発を行った。彼はアンドルー・セラーズの助手となり黄熱の研究を始めた。1926年、彼らは黄熱の原因はLeptospira icteroidesという細菌が原因であるとする野口英世らの説に異を唱えた。黄熱の原因がウイルスによるものであるとはっきりした翌年である1928年、アフリカや南アメリカのウイルスはエイドリアン・ストークスがインドのアカゲザルから単離したものと較べ、免疫学的に独特のものであることを示した。この研究の過程でタイラー自身も黄熱に罹ったが、生還し、免疫も獲得した。
1930年、タイラーはニューヨークのロックフェラー基金に移り、後にウイルス研究所の責任者となって最後までここで過ごした。テイラーは、弱毒化した黄熱ウイルスがアカゲザルに免疫を与えていることを発見した。そこでテイラーは、黄熱のワクチンを開発できた。しかしタイラーと共同研究者のヒュー・スミスが17-Dワクチンを開発したと公表したのは、西アフリカ由来で毒性の強いAsibi株が100以上の株に分化した後の1937年になってからだった。1940年から47年にかけてロックフェラー基金は2800万以上のワクチンを作り、黄熱は恐ろしい病ではなくなった。この業績によって、タイラーは1951年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼は1945年にハーバード大学のフラタリー・メダル、1949年にはアルバート・ラスカー医学研究賞を受賞している。彼はアメリカ合衆国帰化することなく、1972年にコネチカット州ニューヘイブンで亡くなった。

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ノーベル賞はこうして決まる: 選考者が語る自然科学三賞の真実』 アーリング・ノルビ/著、千葉喜久枝/翻訳 創元社 2011年発行
ウイルスワクチンに授与された唯一のノーベル賞 (一部抜粋しています)
1972年、ナイジェリアにあるロックフェラー財団の実験所で、ストークスたちが、黄熱病にかかったヒトから採取した物質でサルを感染させることに成功した。これは重要な進歩だった。この動物の組織を用いることにより、病原体がウイルスの性質を持っていることが最終的に確認された。ウイルスは、西アフリカ黄熱病から助かって血液サンプルを提供した28歳の男性の名を取って、アシビ株と名づけられた。その後ワクチン開発を進めるうえで、このウイルス株が主要な役割を演じることになった。ストークスの協力者の一人、ヨハネス・バウアーはニューヨークのロックフェラー財団の実験所にそのウイルスを持っていった。
野口は、ストークスの実験で病原体がスペロヘータではなくウイルスであることが証明されたと聞き、西アフリカのロックフェラーの実験所へ行く決心をした。彼が到着したのは1928年1月で、その4ヵ月も前にストークスは黄熱病で亡くなっていたが、到着から5ヵ月も経たないうちに野口自身がこの病に倒れた。野口の死の病院を確かめるため、実験所の所長W・A・ヤングが自ら検死解剖をおこなった。こうした数々の痛ましい犠牲により、微生物の狩人のなかでも特に黄熱病研究者を英雄視する土壌が育成されることになった。1934年にブロードウェイで上演さてた作品『イエロー・ジャック』で、ジミー・スチュアートは実験台になる勇敢で情熱的な研究者を演じた。野口は今日にいたるまで日本では偉大な人物として尊敬されている。2004年からは彼の肖像画を1000円札紙幣に見ることができる。
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マックス・タイラーは1899年にスイス出身のもとで南アフリカプレトリアに生まれ、20歳になるまでそこで過ごした。南アフリカを離れたのちは2度と故国に戻ることはなかったが、終生国籍を移さなかった。のちには合衆国の市民権も得ている。彼の父親は有名な獣医学の教授で、濾過性病原体に関し先駆的な研究をおこなっており、息子の将来に何らかの影響をおよぼしたのは確かである。南アフリカで予備医学課程を修めたあと、ロンドンの聖トマス病院で医師養成課程を受けるためにイギリスへ向かった。1922年、王立内科医科大学で医師免許を取得し、王立外科医師会のメンバーとなった。同年熱帯医学と衛生学の学位も取得している。その後合衆国へ渡り、1922年から1930年のあいだにボストンのハーバード医学校の熱帯医学科で、最初は助手、のとには専任講師を務めた。
同学科の学科長W・A・セラーズは特に黄熱病に強い関心を抱いていた。またストークスなどの成功に引き続き、仏領西アフリカのダカールで研究を進めていたセラーズたちもサルからウイルスの分離に成功していた。このフランス株と呼ばれる分離株は、合衆国へ運ばれた最初の実験的黄熱ウイルスであった。タイラーは実験室でさまざまな熱帯伝染病について研究して、「レプトスピラ・イクテロイデス」がワイル病の原因となる「黄疸出血病レプトスピラ」と同一であることを示し、黄熱病の研究分野における最初の業績を上げた。kの発見は、野口の実験結果を受けて当時主流となっていた、レプトスピラ・イクテロイデスが黄熱病に関係があるとの説に反していたため議論を呼んだ。それから程なくして、バウアー率いるロックフェラー財団の研究グループがサルを用いた実験で、その病原体に限外濾過性の性質があることを示したため、その問題に決着がついた。タイラーはさらに西アフリカと南アフリカ起源の黄熱ウイルスを免疫学的に比較した研究をおこなった。彼のさまざまな発見から博士論文が1本書き上げられたかもしれないが、タイラーが正式に博士号の審査を受けたことは一度もない。
彼の経歴で次に重要な段階は、ウイルスの研究のため、高価であつかいが難しいサルの代わりとなる実験動物を探していた時に起こった。彼はネズミの脳でフランス株ウイルスを繁殖させることに成功した。この研究成果により、黄熱病研究にまったく新たな研究方法が開けた。タイラーはその功績が認められ、1930年にロックフェラー財団の国際保健部局のポストに応募したところ大いに歓迎された。黄熱病研究で世界有数の研究所に入ったのはタイラーの経歴において重要な一歩となった。そこには控えめで想像力のある彼の才能を開花させるうえでふさわしい環境であった。
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タイラーは1939年イギリスの王立熱帯医学会からチャーマーズ記念賞、1945年ハーバード大学のフラタリー・メダル、1949年にラスカー財団のラスカー賞を受賞している。1972年に亡くなった。

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