じじぃの「世界遺産・血塗られたロンドン塔!封印されたミステリー」

世界遺産 ロンドン塔 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7-9ekOEfkIM&feature=related
Tower of London Raven 2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=shrZmwVVmac
イギリスの旅 18 「ロンドン塔とタワー・ブリッジ」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yi00wQIUrDc&feature=related
ロンドン塔 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A1%94&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A1%94&gs_upl=0l0l1l149765lllllllllll0&aqi=g4g-rJ1&oi=image_result_group&sa=X
ロンドン塔 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ロンドン塔(Tower of London)は、イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞である。
正式には「女王陛下の宮殿にして要塞」と呼ばれるように、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。その景観から「ホワイト・タワー」とも呼ばれる。世界最大級のカット・ダイヤモンド「カリナン」はここで保管されている。
【ロンドン塔のカラス】
ロンドン塔には、世界最大級の大きさであるワタリガラスが一定数飼育されている。ワタリガラスは大型で雑食の鳥で、1666年に発生したロンドン大火で出た大量の焼死者の腐肉を餌に大いに増えたともいわれている(しかし、実際に記録されているロンドン大火で死者は5名だけである)。当然、ロンドン塔にも多数住み着いたが、チャールズ2世が駆除を考えていた所、占い師に「カラスがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」と予言され、それ以来、ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まったとされる。
またイギリス人に人気のあるアーサー王伝説において、アーサー王が魔法でワタリガラスに姿を変えられてしまったという伝説もあり、ワタリガラスを殺す事は、アーサー王への反逆行為とも言われ、古くから不吉な事が起こるとされている。
現在でも、ロンドン塔のカラスは「レイヴンマスター」と呼ばれる役職の王国衛士によって養われており、風きり羽を切られて逃げないようにされたものが、豚ガラを餌に半ば放し飼いで飼育されていたが、近年では鳥インフルエンザの罹患をおそれて、飼育舎を設置しての飼育に切り替えられた模様である。約25年の寿命を持つワタリガラスであるが、飼育数が一定数を割ると、野生のカラスを捕獲して補充していたが、最近では人工繁殖にも成功している模様である。なおワタリガラスは気性が荒いため、みだりに観光客がちょっかいを出すと襲われるケースもあるという警告がなされている。

                                • -

世界遺産ライブラリー [ロンドン塔] NHK世界遺産
ロンドンのテムズ川沿いに建つロンドン塔は、11世紀に現在のイギリス王室を開いた王ウィリアム1世によって築かれた城です。王宮として輝いていた城は後に、監獄として使われるようになり数々の残酷な悲劇の舞台となりました。
「シリーズ世界遺産100」では、大きく変貌した城の歴史と、ロンドン塔で処刑された悲劇の王妃の物語を紹介します。歴代のイングランド国王と共に歩んだ輝かしい歴史を持つロンドン塔。しかし、16世紀の王ヘンリー8世は新しい宮殿を建て、ロンドン塔を監獄としました。難攻不落の城砦は脱出不能な監獄と姿を変え、多くの政治犯、主に王侯貴族や僧侶たちが収監されて、斬首刑に処せられたのです。
なかでも悲劇的なのは、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリン王妃です。男の世継ぎを期待され結婚したアンでしたが、男の子を流産してしまい、王は激怒します。そして姦通罪などの罪を着せられて、ロンドン塔に送られ斬首されたのです。ロンドン塔の処刑場だった場所には今、アン・ブーリンの名を記した記念碑が立っています。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards576.html
井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
ノルマンディ公 ウィリアム1世 (一部抜粋しています)
われわれは今、イギリスを1枚岩の国のように考えているが、実はそうではない。イギリスの国連での席次は「U」に属すが、それは正式名称が、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)だからである。つまりイギリスという国は「連合国」なのだ。
その国土は、いくつもの島からなる。一番大きな主島がグレートブリテン、次に大きな島がアイルランド、それに細かな島々が含まれ、いわゆる「イギリス」となっているのだ。
さらにグレート・ブリテンは、行政的には「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」の3地区に分かれる。こうしたイギリスの複雑な成り立ちは、国旗である「ユニオンジャック」にも表れている。ユニオンジャックは、3地区それぞれの守護聖人を象徴する3色の十字を組み合わせたものだからだ。
日本でも人気の高いサッカー選手デビットベッカムは、白地に赤十字の旗を掲げるが、これは彼がイギリスではなく、イングランドの代表であることを表している。
イギリスの主島、グレートブリテン島にもともと住んでいたのは、アングロサクソンという人種で、9世紀頃には彼らによる統一国家イングランド王国」が成立していた。ウィリアム1世とは、11世紀に起きたアングロサクソンによるイングランド王室の王位継承問題に乗じ、イングランドを征服し、ノルマン人による王朝を新たに打ち立てた人物である。
初め彼は、イングランドとは海を隔てた強国、フランスの一地方領主に過ぎず、領有していた土地の名前をとって、「ノルマンディ公」と呼ばれていた。イングランドというのは、第二次世界大戦の際に連合軍の大規模な上陸作戦が行われたことで知られるフランス北西部の地である。
ことの発端は1066年、それまでイングランドを治めていたエドワード懺悔王が跡取りのないまま死亡し、その義弟にあたるウエセックス伯ハロルドが王を称したことに始まる。ノルマンディ公ウィリアムがこれに異を唱え、自らの王位継承権を主張したのだ。
彼の主張にも一応根拠はある。まず第1に、自分が故エドワードの遠縁にあたること、そしてもう1つは、かってハロルドが自分に臣従することを誓っていたことである。
ウィリアムがイングランド侵攻の準備を進めている頃、北海を挟んで向かい合うノルウェーもまたイングランドに領土的野心を燃やし、イングランド北部に侵攻、ヨークという町を占領した。そしてハロルドがこのノルウェー軍を撃退するために北へ移動したところを狙って、ウィリアムはイングランドに侵入し、ヘイスティングに陣を敷いた。
この知らせを聞いたハロルドは、ノルウェー軍を撃退すると急いでヨークからとって返し、ウィリアム軍と対峙した。こうして1066年10月13日、イングランドの領有権を目指したチャンピオンシップが、ヘイスティングの北部において繰り広げられたのである。
当初この戦いは、盾と斧で強力に武装した歩兵による密集戦法を用いたハロルド軍が、槍による一騎打ち戦法を得意とするウィリアム軍を圧倒した。しかし、ウィリアムは自軍が不利と見ると、途中で戦法を転換、わざと敗走したと見せかけて、密集を解いて追撃してきたハロルド軍を待ち伏せし、各個に撃破したのである。
これによりハロルドは混乱のうちに戦死、丸1日の激戦で、ウィリアムは勝利を手にした。
その後南東部地方を制圧したウィリアムは、ロンドンを開城させ、同年のクリスマスにはイングランド王ウィリアム1世として戴冠。これによってアングロサクソン民族の王朝は滅亡し、ノルマン人による新しい王朝が誕生したのである。
この事件は、イギリス中世史最大の事件とされ、「ノルマン・コンクエスト」と称される。
これがどれほど大変なことであったかは、日本に置き換えてみればすぐわかる。たとえれば、朝鮮半島の王が、日本の領有権を主張し、武力で日本を占領したようなものなのだ。
       ・
ウィリアムが生きたのは、日本の歴史でいえば平安時代の末期、人間の戦いの型というものはそれほど大きく変らないものだから、日本と朝鮮も今ではまったく別の国と認知されているが、もしかしたら、記録に残っていないだけで、両国の間にもノルマンとアングロサクソンと同じような争いが繰り広げられていたのかもしれない。

                                • -

『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
なぜロンドン塔にカラスがいなくなると社会が崩壊するのか? 【遺跡名】ロンドン塔 (一部抜粋しています)
ロンドンを訪れた観光客はまず、バッキンガム宮殿に足を運び、次にロンドン塔を訪れる。ちなみにイギリスで「ゴー・トゥ・ザ・タワー」(ロンドン塔に行く)といえば、物見遊山(ものみゆさん)に行くという意味だ。この言葉の存在は、ロンドン塔はいまも昔も、ロンドンでも1、2を争う観光スポットであるということを物語っている。
一口にロンドン塔といっても、1つの建物ではなく、掘割の中に10数棟の建物が建っている。城であり、要塞であり、牢獄であり、時には刑場としても使われてきたのである。ロンドン塔は歴史とともに、その明暗がめまぐるしく反転してきた。
その初めは、征服王の異名をとるウイリアム1世が、町の防御のための砦を建設したことに始まる。本当の目的は町の防御以上に、市民に自らの権威を見せつけるためだったといわれている。
砦のお孤影はいまも色濃く、ノルマン築城術の面影をとどめる城壁は厚く、四隅には、どっしりとしたやぐらも建っている。
1097年、ウイリアム1世の子供、ウイリアム2世は木造だった居室部分を堅固な石造りに改造した。このとき、完成されたのが「ホワイトタワー」である。その名のとおり、真っ白な石灰岩がつかわれたこの塔は高さ27メートル、壁の厚さ4.6メートルと威風堂々とした構えで、あたりを睥睨(へいげい)していた。やがて、このホワイトタワーを取り囲むように13の塔をもつ城壁など、いくつかの建物が次々と加えられていった。
現在、ホワイトタワーの内部は公開されて、甲冑(かっちゅう)などの武具、拷問道具などが展示されている。タワーの2階にあるセント・ジョン礼拝堂は1080年に完成されたもので、ロンドン最古の礼拝堂である。
テムズ川越しに見る4基のタワー、その中央に翻(ひるがえ)るユニオンジャック……。これがロンドン塔の典型的な写真だが、この手前部分がトレイターズゲート。かっては正門だったが、ヘンリー3世の時代(在位1216〜1272年)には牢獄へ引き立てていく囚人たちを受け入れる門として使われるようになった。
トレイターズとは反逆者という意味である。罪人は船に乗せられて、ひっそりとテムズ川を下り、トレイターズゲートから城内に引き入れられた。
無実の姦通罪を着せられたヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリアン、5番目の王妃キャサリン・ハワードはロンドン塔内の刑場で首をはねられ、露と消えた。
      ・
ロンドン塔は牢といっても、明らかに無実の罪人だったり、謀反や叛逆など、時代が異なれば英雄に列せられたような人物が多く収監されていたという特徴がある。
日が落ちた後は塔の敷地内には誰も入れないが、いまも夜中に、守衛の耳に、庭内を伝わって何者かの物音が響くことがあるという。だが、その姿はけっして見えないのだ。この塔にかぎっては、こんな亡霊話がけっして聞いに聞こえない。
ところで、不吉な塔にふさわしく、ロンドン塔にはいつのころか、真っ黒なカラスが住み着いている。おそらく、中世には、処刑後の遺体を見せしめのためにさらしものにしたり、無位無冠の者であれば、遺体は城壁の外に放り出され、そのまま打ち捨てられたに違いない。カラスたちは、ついばむものには事欠かなかったわけである。

                                • -

どうでもいい、じじぃの日記。
平川陽一著 『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』という本を見ていたら、「なぜロンドン塔にカラスがいなくなると社会が崩壊するのか?」というのがあった。
「ロンドン」と聞いて、何を思い浮べるのだろうか?
2012年に開催されるオリンピックだろうか。
ロンドンは19世紀から20世紀にかけて、世界の中心であった。19世紀初頭には85万人ほどだった人口が、1900年には700万人にまでなった。
ロンドンはまた、世界の怪奇スポットの1つでもある。小説では『ジキルとハイド』の舞台となった場所であり、「切り裂きジャック」事件の場所でもある。ロンドン橋には人柱伝説がある。
「ロンドン塔にはいつのころか、真っ黒なカラスが住み着いている。おそらく、中世には、処刑後の遺体を見せしめのためにさらしものにしたり、無位無冠の者であれば、遺体は城壁の外に放り出され、そのまま打ち捨てられたに違いない。カラスたちは、ついばむものには事欠かなかったわけである」
「ロンドン塔」をキーにして検索すると、必ずカラスが登場する。
カラスは昔食べた処刑後の遺体の味が忘れられないので、そのままずっと居続けているのだろうか。
世界の怪奇スポットの1つでもあるロンドン。ロンドンにはカラスがよく似合う。
「ロンドン塔にカラスがいなくなると、ロンドンは崩壊するのである?」
夏目漱石は小説『倫敦塔』を書いた。この塔に閉じ込められた歴史上の人物たちに思いを馳せて書いたのだという。
ロンドン塔は1988年 文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録された。