じじぃの「人の死にざま_703_北条・政子」

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源 頼朝 Masako and Yoritomo Part 1 動画 YouTube
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よろパラ 〜文学歴史の10〜 日本史人物列伝『北条政子
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北条政子 ウィキペディアWikipedia
北条政子は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝正室伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡姫。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局など。
伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。
なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。
【尼将軍】
建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。
実朝の葬儀が終わると政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。
承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の宣旨を諸国の守護と地頭に下す。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかった。
政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。
後鳥羽上皇は宣旨の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
北条政子(ほうじょうまさこ) (1157-1225) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
頼朝と政子の間には二男二女があった。
政子は40歳のとき、19歳の長女大姫を失った。その翌々年、夫の頼朝と次女乙姫を失った。47歳のとき、長男頼家を自分の父時政のために殺された。そして62歳のとき、次男の実朝も、頼家の子公暁(くぎょう)のために殺された。
夫と子の全てを失った政子は、いわゆる尼将軍となる。
そして、68歳の嘉禄元年5月29日から病み、7月11日この世を去った。藤原定家の日記『明月記』に「不食の疾」とあるが、正確な病名は不明。
血で血を洗う一族の内乱に、若いころからの自分の労苦、夫や子を失った悲しみなど、「何の命のながらえて、かかる浮身のむくいに、重ねてものを歎くらん」とめんめんと述べる人間味のあった政子である。死に臨んで、わが人生すべて空(くう)という哀傷にとらえられたろうか。
それとも64歳のときのいわゆる「承久の乱」に、後鳥羽上皇に対して「非義の綸旨(りんじ)」という言葉を投げつけ、麾下(きか)の鎌倉武士を断乎(だんこ)として京へ駈け向わせたほど剛毅な政子である。哀傷の念などめめしい感情はつゆほどもなく息をひきとったろうか。

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