じじぃの「人の死にざま_1576_新田・義貞(南北朝時代の武将)」

◆N35. 鎌倉(唱歌 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r-qFmcWyOQc
鎌倉 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2n1eHN_Tw7w
新田義貞 ウィキペディアWikipedia)より
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下左近衛中将明治15年(1882年)8月7日贈正一位
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。

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『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』 井沢元彦/著 PHP文庫 2015年発行
鉄壁の守りであった鎌倉は、なぜ陥落したのか (一部抜粋しています)
今、関東の中心地と言えば誰もが「東京」と答えます。名前は「江戸」と違えど、江戸時代でもこれは同じです。それ以前は違いました。なぜなら、関東平野は地図で見ただけだと広くて人が住むには最適な土地に思えるのですが、実際に行ってみると邪魔な山がぼこぼこ点在していると、多くの人が暮らすために必要不可欠な大河がなかったからです。利根川が一応あるにはあるのですが、これは有名な暴れ川で氾濫を繰り返していたため、人が住みには適さなかったのです。
では、江戸時代以前の関東の中心はどこだったのかというと、鎌倉なのです。
鎌倉は、地理的には決して開けた土地ではありません。三方を山に囲まれ、残る一方は海に面しているため平地はごくわずかしかありません。そんな鎌倉の地理的特徴を象徴するものに「やぐら(窟/岩倉)」というものがあります。
普通は、「やぐら」と言うとお城の天守閣を除いた物見の部分「櫓」を意味するのですが、鎌倉ではそれとは別に崖を掘って作った横穴式のお墓を「やぐら」と言いました。これは鎌倉特有のものです。平地がほとんどなく、墓所に土地が割(さ)けないので、こうした「やぐら」を作って葬ったのでしょう。
そんな平地の少ない鎌倉を、なぜ頼朝は首府に選んだのでしょう。答えは、守りやすいからです。三方を山に囲まれた鎌倉は、府内に入る道は少ないだけでなく、「切通し」と呼ばれる山の谷間に通された細い道ばかりでした。不運だと思うかも知れませんが、防衛ということを考えるなら、これ以上守りやすい場所はありません。
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そんな天下の要害なら、新田義貞は鎌倉攻めにさぞ苦労しただろうと思われますが、実際には、新田義貞の挙兵からわずか2週間で鎌倉は落ちています。
では、どのようにして義貞は短時間で鎌倉を落としたのでしょう。
実はこれは、少し前までほとんどの日本人が知っていました。なぜなら、「鎌倉」という文部省唱歌(作詞:芳賀矢一)に歌われていたからです。
【鎌倉】
 七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎 名将の
 剣投ぜし 古戦場
 極楽寺坂 越え行けば 長谷観音
 堂近く 露座の大仏 おわします
この歌の冒頭の歌詞は、新田義貞が鎌倉攻めを行った際に、海に剣を投げ入れて神に「潮が引くように」と祈ったところ、見事に潮が引いて、七里ヶ浜の磯を歩いて渡ることができたので、鎌倉を陥落することができた、という故事にちなんだものです。
どうも、新田義貞が鎌倉を攻めた日というのは大潮だったらしく、潮かいつもより引いたので、普段は歩いて移動できない海岸沿いを通って、鎌倉に入ることができたのです。
幕府はまさか海から敵が攻めてくるとは思っていなかったので、やられてしまった、というわけです。
先ほど、義貞の挙兵から2週間で鎌倉が落ちたと言いましたが、義貞も当初は巨福呂坂(こぶくろざか)切通し、大仏坂切通し、極楽寺切通しという3本の道から鎌倉へ攻めいったのですが、これは幕府軍の想定範囲の攻撃だったので、抗戦激しく攻めあぐねていたのです。そこで、神に祈りを捧げ、由比ヶ浜からの攻撃を行うことにするのですが、この海沿いの進軍が行われたのが5月18日、執権・北条高塒が自害したのが5月22日ですから、実質的には鎌倉に入ってからはわずか4日間で鎌倉は落ちているのです。