「蒙古襲来 ・ 北条時宗の決断」 そのとき歴史が動いた(2/4) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-LfE2DNsmmA
「蒙古襲来 ・ 北条時宗の決断」 そのとき歴史が動いた(3/4) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xI9Gu-hC4P8
元寇
北条時宗 ウィキペディア(Wikipedia)
北条 時宗(ほうじょう ときむね、1251年6月5日〜1284年4月20日)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。
鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の日本に対する圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、後世には日本の国難を救った英雄とも評される。
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同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史 小口彦太/著 PHP文庫 2012年発行
破壊力より音が効いた! サムライをビビられた元の火薬 (一部抜粋しています)
当時の日本の武士は、たがいが名乗りをあげて、一対一で戦うスタイル。いっぽうのモンゴル軍は、集団で機動力のある騎馬軍団と射程の長い弓をあやつり、広大なユーラシア大陸の平原を次々に征服していた。
1274年の文永の役で、鎌倉武士たちは伝統にしたがい、名乗りをあげてひとりずつ斬り込んだ。が、元軍は集団で襲いかかり、雷のような轟音を放つ炸裂弾を撃ちこんできたのだ。この武器は「てつはう」と呼ばれ、中には金属片と火薬が入っていた。爆発音など聞いたことのない多くのサムライは、震えあがったという。
元軍は高麗人も動員されたが、それ以前には高麗が元に攻められている。
13世紀の高麗は、日本の鎌倉幕府のように武家の崔氏が政治の実権をにぎっていた。しかし、モンゴル軍が侵攻すると、高麗王家と崔氏は南の江華島に逃れて抵抗した。
結局、モンゴルが高麗王家の高宗の後ろだてになり、高麗は服属した。
その後、モンゴルの皇帝フビライが高麗経由で日本に服属を求める国書を送ろうとする。だが、これが日本に届いたのは2年もあとだった。高宗のあとを継いだ元宗が、日本との衝突を避けるために元への協力を渋ったからだ。
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博多の海を埋めつくす大船団――1274年、ついに約2万7000人の元軍が襲来した。だが、戦いは一夜にしてあっさり決着する。夜に嵐が来て大船団が撤退したのだ。この戦闘でサムライ・ルールが通用しないと悟った鎌倉幕府は、元軍に備えて博多一体に長大な石塁を築く。案の定、源は日本に服属を求める使者をふたたび送ってきたが、幕府は使者を斬り捨てる。
そして1281年6月、元は前回の5倍の約14万の兵を送り込んできた。弘安の役である。元軍は、守りが手薄な志賀島を攻撃したが、狭い地形で得意の集団攻撃があまり有効に使えず、また鎌倉武士たちの決死の抵抗で苦戦させられる。
結局、この2度目の元寇も、台風で元の船団は大被害を受け、撤退した。もっとも、元軍のうち約10万人の江南軍は華南地方の移民団で、もともと元に制圧された地域の民だった。彼らは占領地で田畑をひらくため、農具や種もみまで用意していたが、あまり実戦力とはいえなかった。
しかも、元軍はずっと狭い船内にすしづめ状態。身動きがとれず、食糧も乏しかった。エコノミークラス症候群になっていてもおかしくない。
ときの執権・北条時宗は元寇を退けたものの、異国相手では没収できる土地がなく、手柄のあった者にもわずかな恩賞しか与えられなかった。このため、多くの武士が幕府に反感を抱く。こうして鎌倉幕府は衰退へと向かっていくのだった。