じじぃの「アリゾナ州の砂漠・夢の球場!強制収容された日系人の物語」

銭村健一郎 (ベーブルースの左側)

収容所の中の野球 Ballpark Days
http://blog.livedoor.jp/bt54/archives/50567260.html
Ralph Lawrence Carr Google 検索
http://www.google.co.jp/images?q=Ralph+Lawrence+Carr&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&ei=CXdBTujyG4-KmQX4i9WsCQ&sa=N&oq=Ralph+Lawrence+Carr&aq=f&aqi=&aql=&gs_sm=e&gs_upl=21936l21936l0l22451l1l1l0l0l0l0l110l110l0.1l1l0&oi=image_result_group&sa=X
奇跡体験!アンビリバボー (追加) 2014年2月27日 フジテレビ
ストーリーテラービートたけし 【進行役】剛力彩芽バナナマン
▽日本人の誇り★奇跡の日系野球チーム
今から100年前、カナダで差別と貧困に苦しんでいた日系人に、希望と誇りを取り戻させてくれたある日系人野球チームがあった。チーム名は「バンクーバー朝日軍」。
彼らは白人たちが仕掛ける理不尽なプレーや判定に負けず、“日本人の精神”だけを信じてフェアプレーに徹し、ついに白人から応援されるまでのチームに成長した。太平洋戦争でチームは強制的に解散させられたが、60年後、再び奇跡を起こすことになる。
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/140227_2.html
『知られざる政治家ラルフ・カーとニッポン人』 〜3人の米国日系人がたどった運命と強制収容の歴史〜 2010年12月26日 BSフジ
1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃により、当時、米国在住の日本人はもちろん、アメリカで生まれ育ったアメリカ国籍を持つ日系人までが「敵性外国人」とみなされた。そして、1942年、アメリカに住んでいたほぼ全ての日本人は、強制収容所での生活を余儀なくされた。しかし、そんな中、日系人の権利を訴え、整然と立ち上がった政治家がいた...。
この番組では、自らを犠牲にして日系人の擁護を行った政治家、ラルフ・カーの孤高な偉業、そして、戦争を生き抜いた日系人3人の壮絶な人生に迫る。
http://www.bsfuji.tv/top/pub/ralph_lawrence_carr.html
ラルフ・ローレンス・カー ウィキペディアWikipedia)より
ラルフ・ローレンス・カー(Ralph Lawrence Carr、 1887年12月11日-1950年9月22日)は、アメリカ合衆国の弁護士であり、政治家(共和党)。1938年からコロラド州知事を務めた。
第二次世界大戦中に公然と日系アメリカ人擁護を主張した数少ないアメリカ人政治家の一人であり、日系人の強制収容にも一貫して反対していたことで知られる。
日系人の擁護】
1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、日本人のみならず、アメリカ国民である日系アメリカ人に対する恐れや嫌悪も広まった。他州から日本人(その多くは米国市民権を拒否され続けている永住者であった)や日系人コロラド州に移転し、州知事であったカーは彼らを受け入れた。ルーズベルト大統領が1942年2月19日に外国人隔離を容認する大統領令9066号を発令、 日系人の強制退去を正式決定した。3月18日には大統領令9102号によって戦時転住局(英語)が設置された。西海岸からコロラドなどの内陸の州に日系アメリカ人および永住日本人達が大量に流入した。真珠湾攻撃の3ヵ月後にカーはラジオ演説で次のように語っている。
「我々は、ある人の仲間に対する愛情や国家に対する忠誠心を、その人の祖父が生まれた場所で判断することはできない。すべてのアメリカ人は、アメリカ合衆国の国境の向こう側の出身なのだ」
コロラド州アマチ収容所開設の約2ヵ月前にあたる6月頃に、カーは多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることを述べた書簡を法務省コロラド代表検察官宛てに送っている。
カーは戦時転住局が西海岸に住む日本人と日系アメリカ人を1942年8月よりコロラド州プロワーズ郡グラナダに近いアマチに強制移住させることになった時も、「西海岸における第五列防止案」として支持した。しかし当時のコロラドの経済、市民リーダーはおろか連邦裁判長も賛成していた「日系人強制収容所案」には強く反対した。世間の反日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけた。
銭村健三 ウィキペディアWikipedia)より
銭村健三(ぜにむらけんぞう、1927年5月16日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。日系二世。愛称は「ハワード」。
父は広島出身の日系人で「日系人野球の父」と呼ばれた銭村ケンイチ(銭村健一郎)。現在、高校野球の応援歌としてよく使われる立教大学の第2応援歌「St. Paul’s Will Shine Tonight」は、1927年に日本に遠征したケンイチ率いるフレズノ・アスレチッククラブ(フレズノ野球団)によって立教大学に伝承されたもの。
実兄は東洋工業サッカー部に在籍した銭村健次、実弟は広島カープに在籍した銭村健四
第二次世界大戦中には日系人であったことから、アメリカ合衆国政府によりアリゾナ州のヒラ・リバー強制収容所に一家で入れられていた。そこで他の日系人収容者と共に野球場を造ったという。
1953年途中、広島カープに弟・健四、同じく日系二世の光吉勉と共に来日し弟と共に広島市民から熱烈な歓迎を受け入団。ハワイで教職についていた為、夏休みの終わる9月までしか在籍せず帰国。本人曰く「夏休みを利用してアルバイトに来た」だけ。
特に活躍もなく、短期間で去ったため「日本に来たのは観光旅行目的では?」との見方さえあった。
健三は現在もアメリカ合衆国で健在である。

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『人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』 ジョン・W.ダワー/著、斎藤元一/翻訳 1987年発行
日系アメリカ人の強制収容 (一部抜粋しています)
戦時中のハリウッド映画は、こうした敵についての対照的な受けとめ方をそのまま使った。良いドイツ人と悪いドイツ人という言い方をアジアにあてはめると、良い国民(中国人、フィリピン人)と悪い国民(日本人)ということになった。アジアの敵とヨーロッパの敵の区別が、戦争のなりゆきからというより根強い人種的な偏見から出ていたことは、1942年はじめの何ヵ月間かで明らかだった。その時アメリカ政府は日系人を監禁したが、ドイツ系やイタリア系の住民に対して、そうした処置はとられなかった。日系アメリカ人は実際、ドイツ系やイタリア系の市民より深く疑われ、苛酷な扱いを受けた――ドイツ系アメリカ人の「親独協会」(推定会員2万)は、開戦前からアメリカ国内でヒトラーの代理として世論を喚起する活動をしていたにもかかわらず、また真珠湾攻撃のときも事後も、日本人コミュニティのなかには、組織された破壊活動のどんな証拠もなかったにもかかわらず、である。
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こうした血は争えぬもの式の人種主義は、さまざまな決まり文句のイメージや表現をとって記号化された。たとえば「ロサンゼルス・タイムズ」紙は、爬虫類を隠喩に使った。「毒ヘビはどこで卵からかえろうとも毒ヘビだ――日系アメリカ人も同じことで、日本人の両親から生まれた者は、成長して日本人になるのであって、アメリカ人にはならない」。強制立ち退き命令がルーズベルト大統領によって署名される直前、大きな影響力をもつジョン・マックロイ陸軍次官補は、西部防衛司令部の司令官ジョン・デウィット陸軍中将との電話で、もっと平凡な要約を使うことに意見が一致した。すなわち、ドイツ人やイタリア人は個人として扱うことができるが、「ジャップはジャップだ」ということだった。立ち退きを指揮したデウィット将軍は、1年以上たったあとでも依然として、この言い回しが適切であると思っていた。1943年4月、彼は議会の委員会で、なぜ監禁された日系アメリカ人がれっきとした市民権をもつ者でさえ帰宅することが許されないのか、証言するように喚問されたのであった。「ジャップはジャップだ」と彼は公的な証言で再び言い放った。「一片の紙きれ(市民権)を与えることで彼を変えることはできない」。実のところデウィット将軍の考えでは、日本人による脅威は日本人という人種を全滅させてはじめて取り除かれるのだった。

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報道ステーション 「ゼニムラ・フィールド 日系人収容所のフィールド・オブ・ドリームス 2011年8月8日 テレビ朝日
アメリカの日系人が第2次世界大戦中、アメリカ国内の日系人収容所に入れられたことは周知の事実です。
しかし、アリゾナにある砂漠の中の収容所に「ゼニムラ・フィールド」という野球場を作った日系人がいたことはあまり知られていません。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」はトウモロコシ畑の中に球場を作りましたが、ゼニムラ・フィールドは、砂漠の中にできた球場です。
日系野球の父ともいわれた銭村健一郎が、アリゾナヒラ・リバー収容所(アリゾナ州フェニックスから約50km)にこのゼニムラ・フィールドを作りました。
水道管を270mも離れた洗濯場から引き、外野に天然芝を植えたり、観客席まで廃材を利用して作った立派な球場だったようです。
球場を作っただけでなく、銭村健一郎は、3部32チームもの野球チームを組織したといいます。
高校生チームは無敵だったそうです。
一番上のレベルの試合には、5000人もの観客が押しかけたといいます。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/
どうでもいい、じじぃの日記。
8/8、テレビ朝日報道ステーション』の番組で特集「ゼニムラ・フィールド 日系人収容所のフィールド・オブ・ドリームス」を観た。
こんなことを言っていた。
黙々と球場作りをする父子の姿にいつしか他の日本人たちも集まってきました。
銭村健三さんと同級生の古川さん(83)も球場作りを手伝った1人です。
「銭村監督の命令の下で、僕たち若い衆はみんな元気を出して、球場が出来たらまた昔のようにベースボールができる日が来ると思って一生懸命やった」
夏は40度を超える砂漠で作業に励む日系人の姿に、この頃は監視も球場作りを「黙認」していたといいます。
強制収容された日系人の多くはアメリカ国籍を持っていました。ベースボールへの夢、それは突如奪われたアメリカ市民としての生活を少しでも取り戻そうとする強い思いだったのかもしれません。そして半年後の1943年3月、ついに球場は完成。
観客の応援席やフェンスだけでなく、外野に芝生を植えるなど本格的なスタジアムでした。その名は「ゼニムラ・フィールド」。銭村健一郎親子と日系人たちの夢が実現したのです。
銭村健三さん、「そりゃ、うれしかったよ。日系アメリカ人であることを。祖先が日本であることを誇りに思った」
健一郎さんは中学生から大人まで32チームを発足。野球選手権を開催しました。影響は他の日系人収容所にも。野球の輪が広がり、交流戦まで行われるようになったのです。
当初は差別していたアメリカ市民までもが、噂を聞きつけ続々と観戦にやってきました。とはいえ、強制収容所の中の野球場、ボールやマットなどの消耗品を備えるためにアキ缶を野球場の入口に置き、観客からカンパを募りました。
かって野球場があった場所は今は跡形もなく、アリゾナ砂漠に戻っている。アリゾナ砂漠の風景が映像に出てきた。
そしてスタジアムには7000人もの観客で埋めつくされるまでになったのです。
戦争は激しさを増し、日本では春・夏の甲子園が開催されなかった1945年。しかしここアメリカでは実力を認められた収容所の高校生チームがアリゾナ州の優勝校と対戦をすることになりました。
当時の収容所の高校生チームの記念写真が映像に出てきた。
監督は銭村健一郎さん。チームの中心は健三と健四の2人の息子たちでした。対戦相手のピッチャーは日本チームのレベルの高さに驚かされたといいます。
対戦相手のピッチャーだった人(84)、「彼らは私たちより俊足で、バンドが上手でした。私たちと同等のスキルを持っていた。何よりも彼らのスピードは本当にすごかった」
試合は予想に反し大接戦に。白熱した攻防に10対10。延長戦へと突入しました。日本側の攻防、10回裏、2死満塁。バッターボックスには弟健四さん。
古川さん、「カウント3・2。健四さんは一度も球を打とうとしませんでした」
フルカウントの第6球、健四さんが振り抜いた打球は三遊間を抜け、レフト前に。劇的なヒットでした。
対戦相手のピッチャーだった人、「観客がみんなフィールドになだれ込んできたんだ。選手を祝福するために。私の印象が、その時ほぼ180度変ったことを覚えています。彼らは日系アメリカ人なんだと」
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じじぃの感想
「観客がみんなフィールドになだれ込んできたんだ。選手を祝福するために。私の印象が、その時ほぼ180度変ったことを覚えています。彼らは日系アメリカ人なんだと」
それにしても、こんな人たちがいたんだ。
野球はいいなあ。