じじぃの「人の死にざま_631_城山・三」

城山三郎 - あのひと検索 SPYSEE
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城山三郎「男子の本懐」
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城山三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
城山三郎(しろやまさぶろう、1927年(昭和2年)8月18日-2007年(平成19年)3月22日)は、日本の小説家。本名は、杉浦英一。
経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く出している。
【生涯】
愛知県名古屋市中区生まれ。
海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、東京産業大学(現・一橋大学予科入学、1952年昭和27年)、改名された一橋大学山田雄三ゼミナール)を卒業。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。大学在学中に洗礼を受ける。
1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「クレトス」を始める。名古屋の「近代批評」の同人に加わる。1955年(昭和30年)、一橋大学経済研究所に出張。1957年(昭和32年)3月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居、同12月神奈川県茅ヶ崎に転居。1963年(昭和38年)6月、日本作家代表団(団長・木下順二)参加による訪中を機に愛知学芸大を退職し、以後、作家業に専念する。なお、ペンネームの“城山三郎”は、上記の城山八幡宮城山町)に〈3月〉に、引っ越して来たことから付けたと本人は語っている。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ケ崎市の病院で死去。享年79。

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 城山三郎 【執筆者】井上紀子(城山三郎次女) (一部抜粋しています)
「国家というものが、最後のところで信じられなくてね」
紫綬褒章を断わるって言ったら、ママに注意されちゃってね。断るのはいいですけど、断わり方に気をつけてくださいねって。あなたの思いはともかく、ありがたくお受けになる方もいらっしゃるのだから、くれぐれも失礼のないようにって」
そう言いながらも、どこか嬉しそうに笑う父。歯止めをかけてくれつつも、根底では誰よりも自分を理解してくれている妻を、ちょっぴり頼もしく、また誇らしく思ったのだろう。作家城山三郎として、脂の乗り切った頃のことである。
「読者と家族、それが僕の勲章」――以後、これが父の口癖となった。特に、作品を通して自分を理解してくれる読者に対する信頼は確固たるものであった。父にとっては、国からではなく、読者からの評価こそが真実であり、絶対であり、すべてだった。
「国家というものが、最後のところで信じられなくてね」
その思いが拭われることのないままに、父は逝ってしまった。
その主な要因は、17歳で終戦を迎えた戦争体験。この世に生を受けてから、青小年期に至るまで、丸々すっぽりと戦争の渦の中で育ち、何の迷いもなく、疑念を抱く余地すらないままに、皇国少年として生きていた。大義の名のものに、ひたすら真っすぐ、純粋に。
そして終戦の日。父は、あらためて「空の高さ、青さ」を思い知る。多くの知己友人を失ない、青春を奪われ、生きる指針を見失なう中で、「そもそも人は、幸せになるために生まれてくるのだ」ということに、はじめて気づく。沸々と湧き上がる疑問。「国家とは?」「大義とは?」「国の正義とは?」「個人の幸せとは?」・・・・国家に翻弄された少年は、神から与えられた後半生を、この疑問と向き合うことからスタートさせた。
やがて国家と個人の関係は、経済成長を遂げた中で、組織と個人とのあり方にも転換していくが、父の中でこの問いかけが消えることは決してなかった。
晩年、妻に先立たれてからというもの、急速に衰弱していった父であったが、周囲も驚愕するほど奮い立った瞬間があった。「個人情報保護法案」「メディア規制」に対して、問題提起をした時である。
当初は、官から国民の情報を守るための法案であった筈が、徐々に官が国民の情報を制限するような内容に変貌しつつあるのを知った父は、居ても立ってもいられぬほどの危惧を覚え、矢も盾もたまらず、珍らしく自ら声を上げた。一人でも多くの人にこの法案の実情を知ってもらい、美辞麗句や聞こえのいい文言に隠された、怖ろしい実態に気づいてほしい。ただその一念。消えかかったろうそくの火が、最後に大きな炎を立てる。そんな父の姿がそこにあった。
知らずしらずのうちに、国家の思惑に誘導されてしまう恐さを、痛烈に体験してしまった世代。「これが、最後のお務め」と覚悟して、身を挺して守り抜こうとした情報、表現の自由。国家の暴走を止めるのも、国家の未来を拓くのも、風通しのよい多方面からの情報と、国民の自由な発言があってこそのこと。国民一人ひとりが、自分の頭で考え、心で感じ、自身で判断して各々で責任を取る。この土台ができて、はじめて国家が成立する。信ずべき国家の姿。当たり前のことが当たり前にできる世の中。様々な考えが行き交かう社会。国民がしっかり監視し、、見極わめていかないと、あっという間に国民不在の国家になってしまう。国家あっての国民ではなく、国民あっての国家。父はそのことを私達に再認識させるべく、戦後生かされたのかもしれない。

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