じじぃの「人の死にざま_758_西岡・京治」

西岡京治 あのひと検索 SPYSEE
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国旗の重み 〜西岡京治物語・前編〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xctivYQ7C14
国旗の重み 〜西岡京治物語・シェムガン開発編〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TNvC4m1adQs&feature=related
国際留学生協会 ブータンで最も尊敬された日本人 向学新聞
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-nishioka.htm
国民の幸福度 ブータンにも学びつつ  2011年11月20日 信毎web
ブータン国王夫妻の来日で、この国への関心がぐんと高まった。特に、心の充実感を指標とする「国民総幸福量(GNH)」についてである。
ヒマラヤ山脈の東端にあり、広さは九州ほどだ。人口は約70万人と少ない。
1人当たりの国民総所得は、2020ドルで貧しい。だが国勢調査では、90%以上の人が「幸せ」と答えている。
国民総幸福量の考えは、現国王の父・前国王が提唱した。国民総生産(GNP)や国内総生産GDP)を価値基準とする世界の大勢に対し、仏教理念に基づき国民の総幸福を目指す。
指標として経済発展と開発、伝統文化の継承・振興、自然環境の保全と持続可能な利用、良い統治が柱となっている。
現国王は2006年に王位を譲位された。08年には、国民総幸福量の考えを盛り込んだ新憲法を国民議会が承認し、王制から立憲君主制に移行している。
GNHは世界的にも注目されるようになった。ブータン的な幸福に視察が相次ぎ、世界各地で関係のシンポも開かれる。暮らしの質や伝統、環境などに多くの目が向いてきた意義は大きい。
日本でも国民の幸福度指標の検討を始めた。首相の交代で立ち消えにしてはならない。生活の利便性、安全性、環境への配慮、休暇の取りやすさなど日本にあった指標を設定して、幸福度を高める弾みにするべきだ。
ブータンとの交流にも目を向けたい。栽培植物学者・中尾佐助さんは1958年に調査で入国。その報告「秘境ブータン」(今は北大出版会の著作集に収録)で状況が伝わった。教え子の西岡京治さんは長年農業を指導し、食料自給率と農業生産性を高めた。
http://www.shinmai.co.jp/news/20111120/KT111119ETI090001000.html
ブータン ウィキペディアWikipedia)より
ブータンは、南アジアにある国家。インドと中国にはさまれている、世界で唯一チベット仏教ドゥク・カギュ派)を国教とする国家である。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語と英語。
急速な近代化(欧米化)のなかで、近代化の速度をコントロールしつつ、文化大革命に端を発する中国内陸の農村部による強い影響を受けた政治的立場や全体主義的な伝統を維持しようとする政治に世界的な注目が集まっている。前国王が提唱した国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念、さまざまな環境政策、伝統文化保持(隣国のシッキム王国(現シッキム州)のインドへの併合経緯に由来するブータン族優位政策の一環)のための国民に対する民族衣装着用の強制などが近年のスローライフなどのキーワードと組み合わされて語られる場合も多い。
西岡京治 ウィキペディアWikipedia)より
西岡京治(1933年2月14日 - 1992年3月21日)は、海外技術協力事業団に所属して活動した日本人農業専門家で、植物学者。ブータンの農業の発展に大きく貢献し、ブータン農業の父といわれる。ブータン国王から英語の "sir" に相当し、"best"、「最高に優れた」を意味する「ダショー」の称号を贈られ、現地では「ダショー・ニシオカ」とも呼ばれる。
【年表・年譜】
・1933年(昭和8年)2月14日:日本統治時代の朝鮮の京城(現・ソウル)で、解剖学者の西岡辰蔵・利恵夫妻の長男として生まれる。
大阪府立八尾高等学校卒業後、大阪府立大学農学部(現・生命環境科学部)に進学。部活動は海外農業研究会に所属していた。
・1962年(昭和37年):大阪府立大学東北ネパール学術探検隊に副隊長として参加。
・1964年(昭和39年):ブータンに、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)のコロンボ計画の農業指導者として夫人とともに赴任。以後、28年間、日本から導入した野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾など、ブータンの農業振興に尽力する。西岡の振興策は援助側の一方的な施策の押し付けではなく現地の実状に即した漸進的なものであった。このため、成果の確実性と定着性において他に例を見ないほどの成功を収め、産業・生活の基盤改善に大きく寄与した。
・1980年(昭和55年):ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から「国の恩人」として、民間人に贈られる最高の爵位である「ダショー」を授かり、同国において唯一にして史上初の外国人受爵者となった。
・1992年(平成4年) 3月、帰国直前、敗血症に罹り、ブータンにて死去した(59歳没)。 3月、ブータン王室およびブータン政府によって西岡京治国葬が執り行われ、夫人の意向に従って遺体はパロ盆地が見渡せる丘にある葬儀場に埋葬された。

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ありえへん 「世界の秘境の国」 (追加) 2014年5月6日 テレビ東京
【出演者】ベッキー美輪明宏村上信五丸山隆平安田章大宮崎哲弥岡田圭右陣内孝則
▽ダショー・ニシオカ(西岡京治
西岡京治の半生を紹介。西岡京治は、大阪府立大学農学部で農業を学び、ブータン政府から農業技術支援の要請を受け、ブータンの子どもたちに大根の栽培法を教えた。西岡京治は、3代目ブータン国王から支援を受けて、農業指導を拡大させていった。
西岡京治の言葉
「農業技術の援助っていうのは、技術を農民の中に移し終えたことではなくて農民の気持ちを変えることこそ必要なんです」
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
『世界を変える100人の日本人!』 西岡京治(にしおかけいじ) ブータンの農業を改革した「最高の」日本人 2009年6月5日 テレビ東京
ブータンの農業を改革した西岡京治。1980年、ブータン国王は西岡に対し、ダショーという「最高の人」を表す称号を与えた。後にも先にも外国人でこの称号を手にしているのは西岡ただ1人だけである。1964年、当時31歳の西岡は海外技術協力事業団(現JICA)を通じ、ブータンに派遣された。任務はブータンへ農業技術を伝えることだった。西岡は「農業技術の良さを実感してもられれば伝わるはず」という信念を持ち、大根をはじめ多くの野菜や稲作の普及に貢献した。また4代国王から西岡は依頼を受け、ブータン国内で「忘れられた土地」と呼ばれたシェムガンの開発にも成功する。1992年59歳で西岡は客死する。西岡の葬儀は、ブータンでは国葬としてとり行われ、その葬儀には3000人もの国民が参列した。
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/0906.html
『養老先生と遊ぶ』 養老孟司/監修 新潮ムック 2005年発行
あるがままのブータン (一部抜粋しています)
養老先生の旅は、虫と森が2大テーマである。ブータンは両方を兼ね備えた「楽園」。北はヒマラヤ、南は亜熱帯属する豊かな植生と自然を誇る。
「単調な生物の分布には、貧しさを感じませんか? 子どものときから、私は整理されたものが好きじゃないんです。ブータンは手を加えようとしていない。ブータンへ行かないのはバカみたいなもんですよ。
ヒマラヤ山脈もある山国だから、シワを伸ばして平らにしたら、そうとうな面積になると思う。ブラック・マウンテンという連峰があります。ここまで大きな範囲で、原生林を一望した経験はありませんでした。壮大、荘厳・・・どう言ったらいいか。これほど言葉の限界を感じることはそうありません」

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