じじぃの「世界遺産・なぜパウロはペトラに向かったのか?本当はどうなんだろう」

Treasury of Petra, Jordan 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yszVv99-PTQ&feature=related
Petra-It Is Finished! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IuFvhjEO0Ao
ぺトラ遺跡

地球ドラマチック 「ぺトラ遺跡 砂漠に消えた古代文明の謎」 (追加) 2017年10月21日 NHK Eテレ
【語り】渡辺徹
ヨルダン南部の世界遺産「ぺトラ遺跡」は、2000年以上前に、遊牧民ナバテア人が築いた商業都市だった。彼らは、砂漠の真ん中に貯水施設を作るなど、高度な文明社会を営んでいた。
これまでは「363年の地震によって都市は衰退した」と考えられてきたが、近年の発掘調査から、地震や洪水などの自然災害にもめげず、8世紀頃まで都市は存続していた事実が判明する。では最終的に町が廃墟となった理由とは何なのか…。
105年にぺトラは反乱を起こしたがローマ皇帝トラヤヌスがこれを鎮圧し、ぺトラはローマの属州となった。
ペトラは東方の都市とも交易路がつながり富が蓄積され、3世紀ごろに絶頂期を迎えた。
663年、イスラム帝国によってこの地域が征服され、ペトラは次第に衰退していった。
8世紀には大地震により多くの建物が倒壊した。
その後隊商の行き交う道は東に移り、ペトラは徐々に輝きを失い、人々から忘れ去られた廃墟となってしまった。
2000年もの間、隠され守り続けられたペトラ遺跡は1985年にユネスコ世界遺産に登録された。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/183/2340496/index.html
古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議7 前哨戦スペシャル」 (追加) 2012年9月21日 テレビ東京
【MC】ビートたけし 【進行】松丸友紀テレビ東京アナウンサー) 【パネラー】吉村作治荒俣宏 / 萬田久子宮崎香蓮 【レポーター】ペトラ遺跡:趙萊和 /アダラジ・ヴァヴ:中田あすみ
今から2000年前にギリシャの数学者にして旅行家フィロンが「世界の7つの景観」を選んだ。
「たけしの 新・世界七不思議」では、2007年から毎年正月に、現代の“フィロン”たけしと日本を代表する賢人たちが、“21世紀の世界七不思議”を決定してきた。これまでに、6つの“新世界七不思議”が選ばれた。その6つとは…
幻の都 ベトラへと辿り着いたその他一般人は、財宝が隠されていると伝えられている「エル・カズネ」のほか、王家の墓や劇場など様々な建造物を発見したという。考古学者のスレイマン・ファラジャットは、ペトラが交易によって莫大な利益をあげ、経済大国になったことを解説した。
ナバテア人の神殿「エド・ディル」を紹介。この神殿は1世紀頃に作られた建造物で、高さは45mもある。考古学者のサード・トワイシー博士によると、ナバテア人は、エド・ディルやエル・カズネのような巨大建造物を作る際、上から下へ掘り進める方法をとったため、木材の足場を必要としなかったという。吉村作治は、ペトラに定着したベドウィンが、ペトラを通るキャラバンなどからお金や物資を取っていたことなどを語った
エル・カズネは、紀元前1世紀頃、ナバテアの王であったアレタス4世によって建造されたという。2003年にエル・カズネの発掘調査を行ったスレイマン・ファラジャット博士は、現在の地表から5m下に新たな入り口が存在することを突き止めた。この新たな入り口の先にある地下室で遺骨を発見されたことから、フエル・カズネが壮大な墓であったことが判明したという。
王族の墓だったと言われるエル・カズネ遺跡は、神殿や儀式場にも使われていたと解説した。また、噂されていた財宝は存在せず、誰かに盗まれたのだろうと話した。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nanafushigi_sp/
ペトラ ウィキペディアWikipedia)より
ペトラは、ヨルダンにある遺跡。死海アカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコ世界遺産文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。
【歴史】
紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。 (旧約聖書の創世記第36章からの文書データによると、アブラハムの孫・エサウ系の子孫と、その地のセイル(セラ) 山地に先住していたホリビとセイルの子孫らとの一部混淆による人たちであろうと推定されうる)
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバタイ人達が居住しはじめる。ナバタイ人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバタイ人の有力都市として栄えた。
紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバタイ人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバタイの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。
106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバタイ人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。
1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。
【ナバタイ王国
ナバタイ人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、羊の放牧や盗賊稼業、貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していた。紀元前4世紀前後には1万人弱だったナバタイ人の人口は紀元前2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになる。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバタイ人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、ナバタイ王国が誕生した。

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『神の旅人 聖パウロの道を行く』 森本哲郎/著 新潮社  1988年発行
薔薇色の都・ペトラ (一部抜粋しています)
ダマスカスへの道でイエスの声をきき、天の光に打たれて回心したパウロは、そのあと、だれにも相談せず、エルサレムにも帰らず、「アラビア」へ出ていった。その「アラビア」とはどこなのであろうか。具体的な地名が示されていないので推測する以外にないが、もともと「アラビア」とはセム語で、「不毛な地方」、すなわち砂漠を意味している。パウロは回心後、神が自分に啓示した言葉の意味をあらためて省み、瞑想すべく砂漠へ出て行ったとも思われる。
しかし、彼はそれについては黙して語らず、ただ「それから再びダマスコに帰った」と述べているだけである(「ガラテア人への手紙」)。その期間がどのくらいだったのかもわからない。が、たぶん数ヵ月だったろうとされている。パウロにとって、いちばん重要な時だったはずのこのアラビア行が薄明のなかにあることはまことに残念だが、それだけに生まれかわったパウロの姿を神秘的なものにしている。私はユダヤ人サウロが聖者パウロになったのは、まさしくこのアラビア行だったと思う。
ところで、諸家の指摘によると、この「アラビア」とはダマスカス周辺にひろがっている砂漠を意味するのではなく、ナバタイ王国だったのではないか、と考えられている。ナバタイ王国とは、前記のように、私がこの旅の最初に訪ねたヨルダンのあの「薔薇色の都」ペトラに本拠を置き、ダマスカスまで勢力をひろげていた通商王国である。では、なぜパウロはペトラへ向かったのであろうか。それにはナバタイ王国がそのころどのような状況にあったのかを、もういちど顧みなければならない。そもそもナバタイ王国とはいかなる国だったのか。
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さて、シバの女王はソロモンの子を宿して帰り、やがて誕生するメネリクという王子がエチオピア建国の祖となるわけだが、この話は、シバの王がアフリカに勢力を伸ばし、やがてアビシニア王国を建設した事情を語っているのであろう。
ところで、そのシバ王朝は――ルイス教授によると――逆にエチオピアによって滅ぼされてしまう。その後、一時期、ペルシャがここを征服するが、それも長くつづかず、やがてアラビア半島の北部に別のセム系の民族が割拠し始めてさまざまな争いを繰り返したすえ、ナバタイ人が登場する。彼らはエドム人を追い払い、トランスヨルダンの地を占めて、しだいに勢力をひろげていった。このナバタイ人は「紀元前400年にシリアがペルシャ支配下にあった時、まだ多くは遊牧民で、天幕に住み、アラビア語を話し、酒も嫌って、農業には無関心だったというが、つぎの世紀になるとかれらは農業や交易を知って有黙生活を捨て、しだいに豊かな社会をつくり始める、そして、ペトラが彼らの本拠になったのである。
ペトラは地球のひびの底といっていい。そのひびはアフリカのタンガニーカ湖の峡谷に始まり、ケニアからエチオピアへ走り、紅海を横切ってヨルダンへ達する4000マイルに及ぶ地球の深い亀裂である。ペトラはその亀裂の谷底にひらかれた「岩の都」なのだ。だからペトラ(岩)と呼ばれるのである。
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――ナバタイ人は特別に取引上手であった上に、製陶術、建築、用水技術に熟達していた。ペトラ人(ナバタイ人)の通商はイタリアやペルシャ湾にまで浸透し、生糸の取引については中国の記録にさえ認められる。主要商品としては南部アラビアの沒薬(もつやく)、薬味、乳香、ダマスカスとガザの高価な絹織物、アスカロンのヘンナ染料、シドンとティル(テュロス)のガラス製品および紫(深紅)色染料、ペルシャ湾の真珠があった。ナバタイの特産品には金、銀、ゴマ油およびおそらくアスファルト、その他死海沿岸の収益の多い鉱物があった。ギリシャやローマの輸入品はアッティカの壺に入れて運ばれ、その断片が今なおペトラ近辺で発見されることがある。
これをもってしても、ペトラがどれほど富裕な都であったか、ナバタイ人の交易活動がいかにさかんであったか、察するに難くない。ペトラの都はまさしく「宝庫」だったのだ。ナバタイ王国は、ローマとも結構友好的に、要領よくつき合っていたようである。アウグストゥスがイエメンに遠征隊を送ったときに、ペトラはその基地を提供している。
もっとも、ナバタイ人のほうが一枚上手だった。ガルスの率いるローマの遠征軍はナバタイ人アンタスが提供した参謀に欺かれてさんざんな目にあったのである。「政治だけが産業」だったローマにとって、インドとの交易の窓口ともいうべきイエメンはどうしても手に入れたいところだったのだが、ここはナバタイ国の大事な窓口でもあった。ナバタイ王はローマを欺いていっぱい食わせたのだ。
しかし、因果はめぐる。ナバタイの謀略に気付いたローマはやがてこの王国を属州とし、「幸福なアラビア」をついに手に入れる。そしてアラビア――ダマスカス間の交易路を東に移し、ペトラを岩の孤島に変えてしまう。隊商都市として繁栄を謳歌したペトラは、その地位をパルミラに奪われるのである。
ペトラが最も栄えた時期は、ちょうどパウロのころ、すなわち紀元1世紀の初めの数十年だった。岩に刻まれた見事な建築群はいずれも紀元前100年から紀元後100年のあいだにつくられたものだという。つまりパウロはナバタイ王国が最盛期にあったとき、その都ペトラを訪ねたわけである。
ではふたたび、回心したパウロはなぜ、そのようなペトラをめざしたのであろうか。ダマスカスからペトラへの道は、前にも述べたようにキャラバンの幹線道路である。パウロがペトラをめざしたとすれば、おそらく、その道に沿って歩んだのであろう。現在も通じているアカバ街道を南にくだると、道はその途中で二股に分かれる。右に行けばエルサレム、左に進めばペトラだ、パウロエルサレムに向かわず、その街道を左へ、まっすぐに歩みつづけたにちがいない。「薔薇色の都」ペトラをめざして。

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どうでもいい、じじぃの日記。
森本哲郎著 『神の旅人 聖パウロの道を行く』という本を見ていたら、「薔薇色の都・ペトラ」というのがあった。
パウロは、今のトルコで生まれたユダヤ教徒で、ギリシャ語もうまくローマの市民権をもっていた。あるとき復活したイエスを見て「回心」し、熱烈なキリスト教徒となった。
ペトラは、ヨルダンの死海アカバ湾の間にある渓谷に、紀元前2世紀ごろに遊牧民ナバタイ人が築いた岩山都市だ、1985年にユネスコ世界遺産文化遺産として登録され、2007年には新・世界七不思議に選出された。
「これをもってしても、ペトラがどれほど富裕な都であったか、ナバタイ人の交易活動がいかにさかんであったか、察するに難くない。ペトラの都はまさしく『宝庫』だったのだ」
ペトラは紀元1世紀ごろ、アラビア半島とエジプトを結ぶ交易路の要所として繁栄した。
「なぜパウロはペトラへ向かったのであろうか」
パウロが生きた時代はペトラが最も栄えた時期だった。
パウロがペトラへ向おうが、エルサレムに向おうが、そんなに問題になることなのだろうか?
イスラム教はムハンマドによって、紀元7世紀に誕生した。
パウロがこのイスラム教の誕生になんらかの影響を与えたというのだろうか。