じじぃの「ダマスカスへの道でイエスの声を聞いたパウロ!シリアは今」

The Road to Damascus - Saul Takes his Journey 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uPlez-rwhKY
シリア


池上彰のニュースそうだったのか!! 2017年1月28日 テレビ朝日
【ニュース解説】池上彰 【進行】宇賀なつみ 【ゲスト】片岡鶴太郎生稲晃子遠藤章造(ココリコ)、パンクブーブー、堀田茜
●世界のテロ、今なぜトルコで頻発?
最近、トルコでテロのニュース、多いと思いませんか?
過激派組織「イスラム国」、最近支配地域が減ってきているとは言われているけど、今実際はどうなっている?トランプ政権誕生でシリア問題に与える影響とは?世界が大きく動き始めた今だからこそ、中東の問題、テロの問題、しっかり知っておきましょう!
http://www.tv-asahi.co.jp/ikegami-news/backnumber/0045/
ダマスカス ウィキペディアWikipedia)より
ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。
日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。

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『神の旅人 聖パウロの道を行く』 森本哲郎/著 新潮社  1988年発行
薔薇色の都・ペトラ より
ダマスカスへの道でイエスの声をきき、天の光に打たれて回心したパウロは、そのあと、だれにも相談せず、エルサレムにも帰らず、「アラビア」へ出ていった。その「アラビア」とはどこなのであろうか。具体的な地名が示されていないので推測する以外にないが、もともと「アラビア」とはセム語で、「不毛な地方」、すなわち砂漠を意味している。パウロは回心後、神が自分に啓示した言葉の意味をあらためて省み、瞑想すべく砂漠へ出て行ったとも思われる。
しかし、彼はそれについては黙して語らず、ただ「それから再びダマスコに帰った」と述べているだけである(「ガラテア人への手紙」)。その期間がどのくらいだったのかもわからない。が、たぶん数ヵ月だったろうとされている。パウロにとって、いちばん重要な時だったはずのこのアラビア行が薄明のなかにあることはまことに残念だが、それだけに生まれかわったパウロの姿を神秘的なものにしている。私はユダヤ人サウロが聖者パウロになったのは、まさしくこのアラビア行だったと思う。
ところで、諸家の指摘によると、この「アラビア」とはダマスカス周辺にひろがっている砂漠を意味するのではなく、ナバタイ王国だったのではないか、と考えられている。ナバタイ王国とは、前記のように、私がこの旅の最初に訪ねたヨルダンのあの「薔薇色の都」ペトラに本拠を置き、ダマスカスまで勢力をひろげていた通商王国である。では、なぜパウロはペトラへ向かったのであろうか。それにはナバタイ王国がそのころどのような状況にあったのかを、もういちど顧みなければならない。そもそもナバタイ王国とはいかなる国だったのか。
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――ナバタイ人は特別に取引上手であった上に、製陶術、建築、用水技術に熟達していた。ペトラ人(ナバタイ人)の通商はイタリアやペルシャ湾にまで浸透し、生糸の取引については中国の記録にさえ認められる。主要商品としては南部アラビアの沒薬(もつやく)、薬味、乳香、ダマスカスとガザの高価な絹織物、アスカロンのヘンナ染料、シドンとティル(テュロス)のガラス製品および紫(深紅)色染料、ペルシャ湾の真珠があった。ナバタイの特産品には金、銀、ゴマ油およびおそらくアスファルト、その他死海沿岸の収益の多い鉱物があった。ギリシャやローマの輸入品はアッティカの壺に入れて運ばれ、その断片が今なおペトラ近辺で発見されることがある。
これをもってしても、ペトラがどれほど富裕な都であったか、ナバタイ人の交易活動がいかにさかんであったか、察するに難くない。ペトラの都はまさしく「宝庫」だったのだ。ナバタイ王国は、ローマとも結構友好的に、要領よくつき合っていたようである。アウグストゥスがイエメンに遠征隊を送ったときに、ペトラはその基地を提供している。
もっとも、ナバタイ人のほうが一枚上手だった。ガルスの率いるローマの遠征軍はナバタイ人アンタスが提供した参謀に欺かれてさんざんな目にあったのである。「政治だけが産業」だったローマにとって、インドとの交易の窓口ともいうべきイエメンはどうしても手に入れたいところだったのだが、ここはナバタイ国の大事な窓口でもあった。ナバタイ王はローマを欺いていっぱい食わせたのだ。
しかし、因果はめぐる。ナバタイの謀略に気付いたローマはやがてこの王国を属州とし、「幸福なアラビア」をついに手に入れる。そしてアラビア――ダマスカス間の交易路を東に移し、ペトラを岩の孤島に変えてしまう。隊商都市として繁栄を謳歌したペトラは、その地位をパルミラに奪われるのである。
ペトラが最も栄えた時期は、ちょうどパウロのころ、すなわち紀元1世紀の初めの数十年だった。岩に刻まれた見事な建築群はいずれも紀元前100年から紀元後100年のあいだにつくられたものだという。つまりパウロはナバタイ王国が最盛期にあったとき、その都ペトラを訪ねたわけである。
ではふたたび、回心したパウロはなぜ、そのようなペトラをめざしたのであろうか。ダマスカスからペトラへの道は、前にも述べたようにキャラバンの幹線道路である。パウロがペトラをめざしたとすれば、おそらく、その道に沿って歩んだのであろう。現在も通じているアカバ街道を南にくだると、道はその途中で二股に分かれる。右に行けばエルサレム、左に進めばペトラだ、パウロエルサレムに向かわず、その街道を左へ、まっすぐに歩みつづけたにちがいない。「薔薇色の都」ペトラをめざして。

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どうでもいい、じじぃの日記。
私が聖書に興味をもったのは、森本哲郎の紀行文、エッセイを読んでからだ。
ユダヤパウロは、イエスをペテン師としてキリスト教信者を迫害していた。
しかしパウロは、シリア・ダマスカスへの道でイエスの声を聞き、天の光に打たれて回心しキリスト教の伝道活動を行い、キリスト教発展の基礎を作った。
シリアの内戦が毎日のように報道されている。
アサド政権がシリア北部アレッポを制圧したらしい。
去年の12月19日、トルコの首都アンカラで、駐トルコ・ロシア大使が警護のために会場にいた警察官に背後から銃撃され死亡した。
犯人は「アレッポを忘れるな、シリアを忘れるな。シリアの同胞が安全でない限り、お前たちも安全を享受できない」と叫んだ。犯人はその後、他の警察官によって銃殺された。
シリアでも内戦状態にあるのは北部で、ヨルダンに近いダマスカスはほとんど報道されることはない。
1〜4世紀頃の中東地域は、ユダヤ教キリスト教の世界だった。
現在は、イスラム教が混在し、さらにIS「イスラム国」と、複雑になっている。
一度、哲学者 森本哲郎さんのように、パウロが歩いた道を歩いてみたかったのだが。