じじぃの「歴史・思想_193_世界史の新常識・神ヤーヴェの沈黙」

Siege of Jerusalem 70 AD - Great Jewish Revolt DOCUMENTARY

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KE4hmrvZLIQ

Jewish-Roman wars

ユダヤ戦争

世界史用語解説
●第1次ユダヤ戦争(66~74年)
ローマの属州ユダヤエで、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まった。
時の皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを反乱鎮圧のために派遣した。ウェスパシアヌスガリラヤ地方を反乱軍から奪回し、イェルサレムに迫った。その途中、本国で皇帝ネロが失脚し、69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐在する軍隊の支持を受けて皇帝に就くこととなり、アレクサンドリアを経てローマに帰った。ユダヤ戦争の指揮を引き継いだその息子ティトウスはイェルサレムを7ヵ月にわたって包囲攻撃し、70年9月に陥落させた。
●第2次ユダヤ戦争(131~135年)
2世紀に入り、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になった。
ローマ皇帝ハドリアヌス五賢帝の一人で膨張政策を改め、帝国の安定をはかっていたが、その晩年に至ってイェルサレムに自己の家名を付けた都市に衣替えし、ヤハウェ神殿を破壊してローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとした。このことはユダヤ人の怒りを買い、131年に第2回ユダヤ戦争といわれるユダヤ人の反ローマ闘争が再開された。一説には、ローマがユダヤ人に対して割礼禁止令を出したことに対する反発であるとも言う。ハドリアヌスは大軍をイェルサレムに派遣、イェルサレムを占領して、135年に反乱を鎮圧した。しかしローマ側の犠牲も大きく、この出来事は五賢帝時代の汚点の一つとなり、ローマの衰退の始まりを示すものでもあった。

こうしてローマ帝国のもとでイェルサレムを破壊されたことによって、ユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。

https://www.y-history.net/appendix/wh0103-075_01.html

『世界史の新常識』

文藝春秋/編 文春新書 2019年発行

古代

キリスト教」はイエスの死後につくられた 【執筆者】加藤隆 より

キリスト教は、後1世紀前半のイエスの行動がきっかけとなって生じた。「キリスト教」は、「ユダヤ教」とは別のものであるかのように理解されてしまっている。しかし「キリスト教」は一種の「ユダヤ教」だと考えた方が、誤解が少ないと思われる。後1世紀に、それまでのユダヤ教に変革の機が熟して、結局のところ後1世紀末頃に、2つの選択肢が選ばれ、それぞれが展開することになった。そのひとつが「キリスト教」と呼ばれるようになった。
ユダヤ教」と「キリスト教」のどちらにおいても、神は、ユダヤ民族の神だったヤーヴェである。このことに着目して、「ユダヤ教」も「キリスト教」も「ヤーヴェ崇拝の宗教」と考え、「ユダヤ教」は「ユダヤ民族に限定された<ヤーヴェ崇拝の宗教>」、「キリスト教」は「ユダヤ民族の枠にとらわれない、普遍主義的な<ヤーヴェ崇拝の宗教>」と捉えるならば分かり易いのでないだろうか。

神ヤーヴェの沈黙

「ヤーヴェ崇拝の宗教」は、イエスの運動が展開しはじめるまでは、基本的にユダヤ人たちだけの宗教だった。これを「従来のユダヤ教」と呼ぶことにする。
この「従来のユダヤ教」は、イエスの頃、大きな問題に直面していた。「神の沈黙」である。イエスの頃には、この問題が本格的になってから、すでに800年ほど経っている。「従来のユダヤ教」は、この問題にどう対処すべきかについて試行錯誤を繰り返していた。
「従来のユダヤ教」はヤーヴェが、「神の民」になることになる集団を選んで、彼らに恵みを与えたことから生じた。前13世紀の「出エジプト」の出来事が決定的な意味を持ったとされている。神によって恵みが与えられたこと――「出エジプト」の出来事に即して言うなら、エジプトの支配から脱して、「約束の地」(「カナン」、今のパレスチナ)で独立した生活ができるようになったこと――に対して、選ばれた者たちは、ヤーヴェを自分たちの神として崇拝するという、いわば「人の側からの神の選び」を行った。この相互の選択によって、イスラエル民族(ないしユダヤ民族)だけに恵みを与えるヤーヴェと、ヤーヴェを自分たちの神とするイスラエル民族というカップルが誕生した。
ところが、神が沈黙する。神が恵みを与えない、神が民を見捨てる。
このことは、前8世紀に、当時ユダヤ人たちが作っていた南北2つの王国のうち北王国が滅んだことで、判然とする。
ヤーヴェは、自分の民であるはずの者たちを守らなかった。ヤーヴェは頼りない神だ、ということになってしまう。だから、ということで、ヤーヴェを見捨てるというもの体も多かったと考えられる。しかし、それでもヤーヴェを見捨てない者達もかなりいた。
ヤーヴェが沈黙し、ヤーヴェに見捨てられているのに、ヤーヴェを自分たちの神として崇拝するということを選んだ者たちにおいて、「神の沈黙」が大きな問題になる。

神は動かない

冒頭で述べたように、「ユダヤ教」と「キリスト教」は、「ヤーヴェ崇拝の宗教」というべき流れの2つの形態である。
1世紀末に、この2つの存在が確定した。
ユダヤ教の主流は、イエス以来の流れを拒絶する選択を行った。この時期、「律法主義」を採用したことが決定的にである。
エスの例などを是認するならば、神は若干の肯定的な介入を行っているのかもしれない。しかし全体的には「神の沈黙」は、続いたままである。

ユダヤ戦争(66-70年)は、神が恵みの付与を本格的に再開したのかどうかを確認する機会になっていたのかもしれない。しかし、神は動かないままである。

「律法主義」を全面的に採用することは、「人による人の支配」の選択肢を退けることを意味する。「掟(律法)の前での平等」の原則が機能するので、人に上下はなく、すべてのメンバーが平等になる。「神の支配」は期待されているが、到来しない。「人による人の支配」は拒否する。「神から与えられた律法の支配」は、神不在の中でのいわば次善の策になっている。
また「律法」は、モーセ以来、神によってユダヤ人に与えられたものというのが公式の位置づけである。律法の権威を認める者がユダヤ人である。「律法主義」の採用は、民族主義的立場の保持を選択したことを意味する。
このような次善の策を採用するしかないのは、神が本格的な介入を実行せず、沈黙したままだからである。「神の支配」がほんとうに実現するならば、「律法の支配」は無効になるだろう。

神ヤーヴェのみ保持された。

ユダヤ民族は後1世紀後半に、全民族がほぼ一致して、ローマと戦争をする(前述のユダヤ戦争)。巨大なローマ帝国に、中規模民族のユダヤ民族が立ち向かうことは、この上なく無謀なことだという印象をもってしまうかもしれないが、実はそれほど無謀なことではない。前1世紀に急速に大きな勢力になったローマも、元は中規模の勢力である。ローマにできたことなら、ユダヤにもできるだろうと考えてよい余地は十分にあった。
だが、ユダヤ戦争での敗北によって、ユダヤ民族の政治的・軍事的な勢力拡大の企ては、完全に失敗する。
しかし、ユダヤ的なものの勢力拡大は、政治的・軍事的に限られるものではない。イエス以来の流れは、ユダヤ的要素として神ヤーヴェだけを確保し、その他の要素は顧みないという選択をしたうえでの試みになっている。
このことを最初にかなり明確に意識したのはパウロだろう。エルサレム教会の2代目の指導者であるヤコブのやり方の観察から、「人による人の支配」の意義をパウロは認識したと思われる。
ヤコブは、従来のユダヤ教に伝わる律法の価値を保持した上での普遍主義を進めようとしていた。しかし律法を尊重していたのでは、ユダヤ的なものが普遍的になることは、事実上かなり難しい。それに対し、パウロは、「律法なしのヤコブ主義」という立場を採用することになる。律法は退ける、「人による人の支配」で実際的な社会統治を行う。しかし、神はユダヤの神であるヤーヴェである。パウロの試みは草創期のものだが、後の「(広い意味での)教会」の様子は、パウロの目論見が世界規模で展開して2000年近く存続した姿になっている。