じじぃの「科学・芸術_957_アイルランド・ケルトの再考」

The Story of Ancient Ireland

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KRcuhyq82Fs

アイルランドを知るための70章』

海老島均、山下理恵子/編著 赤石書店 2004年発行

ケルトの再考 アイルランド人はどこから来たのか より

アイルランド人はケルト人で、英国人はアングロ・サクソン人だととくいわれる。だが、英国にもケルト人が住んでいたこともあれば、英国が古代ローマ人やノルマン人などの支配を受けたこともあることを考えれば、単純に英国人はアングロ・サクソン人とはいえない。同じように、アイルランド人をケルト人だと断言することはできない。というのもアイルランド古代ローマの支配を除いて、ほぼ英国と同じ人種・民族に侵入された経験をもっているからだ。英国人とアイルランド人を人種的に区別するのはむずかしいのではないだろうか。
氷河時代アイルランドグレートブリテン島につながり、グレートブリテン島ヨーロッパ大陸につながっていた。西フランスやスペインには人類が住んでいたが、彼らは、食糧となるものがなかったアイルランドまでやってくることはなかった。氷河が溶けはじめ、人間の食糧となる大鹿がアイルランドにも姿を現したおよそ紀元前6000年頃、アイルランドグレートブリテン島から離れた。アイルランドに最初に姿をみせた人間は、スカンジナビアからグレートブリテン島を経由して、西に進んでアイルランドにやってきたといわれる。その当時、グレートブリテン島かとアイルランドの間にある海峡は、人間がわたることができたという。彼らは狩猟をしながら生活を営み、アイルランドの先住民の原型となったのである。
その後も新たな人口の移動があった。紀元前3000年頃、中東地域で農耕がはじまり人口が増加すると、人々は新たな土地を求めて移動を開始した。そして中東からフランスやスペインに移住し、海を越えてアイルランドまでやってきた。こうした人びとがアイルランドで土地を耕作し、大量の肉を食べていたことが考古学調査からわかっている。紀元前2000年頃になると、アイルランドでは青銅器時代がはじまり、ウィックロー山地でとれる砂金を用いて、金細工の製品が作られるようになった。青銅器時代につつく鉄器時代アイルランドにもたらしたのは、ケルト人ではないかといわれているが、くわしいことはわかっていない。だが、アイルランド社会にケルトの文化が根づいたことは、事実である。
ケルト人は紀元前1200年頃に登場し、ローマ人やゲルマン人によってヨーロッパ大陸の西部に追いやられるまで、中央・西部ヨーロッパを支配したといわれる。ケルト人がいつアイルランドにやってきたのかについては定かでない。
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ただ、ローマ帝国との関連でわかっていることがある。それは、4世紀頃からグレートブリテン島におけるローマ支配が弱体化すると、アイルランド人がグレートブリテン島に攻撃をしかけたということである。そしてウェールズスコットランド」にアイルランド人の「植民地」が成立した。アイルランド人は一部とはいえグレートブリテン島を植民地支配した経験をもつのだ。
古代のアイルランド史に関する史料的な限界があるなかで、有益なのが、2世紀頃にアレクサンドリアで活躍した数学者・天文学者・地理学者プトレマイオスが記したアイルランドに関する記述である。そこには数多くの川や王国が記されている。この当時のアイルランドには「小王国」が存在し、その数は100程度だったのではないかといわれているが、はっきりしたことはわかっていない。英国勢力に征服されるまで、アイルランドでは全土を政治的に統一する政権は生まれなかった。
とはいえ小王国が乱立するなかでも有力な氏族が存在した。イ・ニール家である。彼らは5世紀以来、アイルランド中央部や北部に支配権を拡大し、それまでアイルランドが5地域に分割・統治されていた体制を支えたといわれている。伝説によれば、イ・ニール家の初代ニールは「ターラ王」で、ニールの息子リーレがその後を継ぎターラ王となり、その兄弟たちは北部アルスター地方に勢力を拡大したといわれる。
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11世紀になるとターラ王を称することはあまり意味のないものとなっていった。ヴァイキングが侵入したアイルランドでは、内陸部のターラよりもダブリンやリムリック、ウォーターフォードなどの沿岸の町を支配することがより重要な意味をもってきたからだった。だが、そうであっても、ターラはアイルランド人にとって重要な意味をもちつづけた。たとえば1840年代に英国との合同を撤廃しようとする運動を指導したダニエル・オコンネルは、参加者が100万人ともいわれる集会をターラで開いている。