じじぃの「科学・芸術_959_アイルランド・英国による植民地化」

The Great Famine" Part One: Ireland Before the Famine

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UXfel4n8dX8

Ireland (1801~1923)

アイルランドを知るための70章』

海老島均、山下理恵子/編著 赤石書店 2004年発行

連合王国の成立 英国植民地のモデル より

1775年にはじまったアメリカ独立戦争は、アイルランドの状況を激変させた。アメリカ側に参戦したフランスとスペインは、アイルランドを英国への攻撃の重要な戦略上の拠点とみなしたのだ。当時、アイルランドに駐留する英軍はアメリカへ移動させられていたために、軍事的空白が生じていた。そこで、英国はアイルランドが自ら武装することを認めざるをえず、プロテスタントを中心とした義勇軍が創設されることとなった。この義勇軍は英国に新たな難題をつきつけた。すなわち、アイルランドプロテスタント支配層はこの義勇軍の軍事的圧力を背景にして、英国への従属状態からの脱却、つまり自治を獲得したのである。英国はこれに応じざるをえず、1782年、アイルランド自治を獲得する。
1789年のフランス革命の勃発はアイルランドを再び動揺させた。フランス革命の共和主義思想が、プロテスタント(この場合、英国国教会)の支配体制から排除されていたカトリックと長老派を覚醒させたのである。1780年代までにカトリックと長老派の地位は徐々に改善されてはいたが、アイルランドの支配権は、プロテスタントの支配層つまり英国国教会に属する少数の地主の手に握られていた。このような状況のなかで、1791年、ベルファストで、共和主義思想の影響を強く受けた長老派の商人やジャーナリストを中心とした「ユナイテッド・アイリッシュメン」という協会が設立された。この協会の当初の目的は議会改革であり、革命的なものではまったくなかった。だが、対仏戦争中の英国政府は、フランスがアイルランドに侵入することを危惧し、それと結びつく可能性のある結社を弾圧した。ユナイテッド・アイリッシュメンは、弾圧を契機として革命的な組織に変質していく。非合法化された組織は、フランスの援助のもとに蜂起を計画した。蜂起にはカトリックの農民組織「ディフェンダーズ」も参加し1798年に決行されたが、完全な敗北のうちに終わり治安当局に殺害された人数は3万人ともいわれている。この蜂起鎮圧後、英国政府はアイルランドに与えた自治を取りあげ、1801年にアイルランドを併合したのであった。
アイルランド連合王国の一部になったとはいえ、その統治システムからみると植民地であった。アイルランド総督を頂点とする「アイルランド総督府」という官僚組織がアイルランドを統治したが、このようなシステムはスコットランドウェールズではみられないものであり、英国植民地の特徴だった。だが、連合王国の一部となったアイルランドには「英国型の制度」も導入されている。
こうした事実をまず警察制度を例に説明してみよう。アイルランドの治安維持を担当していたのは「ダブリン首都警察」と「アイルランド警察」だった。ダブリン首都警察は英国最初の「近代的な警察」といわれる「ロンドン首都警察」をモデルにしており、これだけをみるとアイルランドの警察は「英国型」のようにみえる。ところが、アイルランド警察は、ひとりひとりの警官が兵士のように銃で武装するという軍隊のような強力な警察であり、後にセイロンやインド、西インド諸島パレスチナの警察に影響を与え、「植民地警察のモデル」となった。さらにダブリン首都警察とアイルランド警察に共通していることだが、上層部はプロテスタントで、一般の警官はカトリックという構造をしており、このことは少数の支配者が現地の多数の授民を支配するという英国植民地支配のモデルを示している。
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英国の「新救貧法」は、それまで救貧法が存在しなかったアイルランド1838年に導入されたが、この制度にも英国国内との違いをみることができる。この救貧法は、貧民を救貧院に収容することによっての救済するという「院内救済の原則」を確立することでよく知られている。ところが、英国では地方の裁量によって、貧民を救貧院で収容するという手段以外でも貧民が救済されていた。一方、アイルランドでは「院内救済の原則」が厳格に適用され、さらに中央による均一性が重視された制度となった。このようにアイルランドの制度は、「英国型」でもあり、「植民地型」でもあり、両者の中間に位置したといえるだろう。