じじぃの「人の死にざま_757_オッペンハイマー」

ロバート・オッペンハイマー - あのひと検索 SPYSEE
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The Day After Trinity Trailer 動画 YouTube
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Atomic Age - J. Robert Oppenheimer Quote 動画 YouTube
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Tsar Bomba - King of the Bombs - 57,000,000 Tonnes of TNT 動画 YouTube
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ロバート・オッペンハイマー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
J・ロバート・オッペンハイマーは、ユダヤアメリカ人の物理学者である。
理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。
【略歴】
ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。
1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。
1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていたが、第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始される。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった。
弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところでは、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうだが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。
冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシー赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。
戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
J・ロバート・オッペンハイマー (1904-1967) 63歳で死亡  【執筆者】外岡英俊 (一部抜粋しています)
夜明けの砂丘に、巨大な光がはじける。熱球が浮かび、ゆっくり上昇した。閃光から数秒、深い静けさを破って爆発音がとどろいた。
「われは死なり、破壊者なり」……。原爆実験に立ち会ったJ・ロバート・オッペンハイマーは、ヒンズー教聖典のその一節を思い浮かべた。
1945年7月16日、米ニューメキシコ州。原爆の威力は、科学者の予測をはるかに上回った。
「われわれは、人が新しい力を持つことについての、あの深い罪の意識のことを思った」とのちに回想する彼も、この時期は高揚していた。ただ、それは長くは続かなかった。
長崎への原爆投下の翌日。彼はふさぎこんでいた。同僚にこう問いかける。
「広島や長崎を生き延びた人は、死者をうらやむだろうか」
警告なしに、多くの市民の命を奪ったばかりではない。生き延びた被災者にも放射能による被曝の影響が続くことを、博士は正確に理解していた。
「原爆が、争う世界の兵器庫や、戦争に備える国々に新たな追加されるなら、人類がロスアラモスと広島の名をのろうときが来るだろう」
原爆投下から2ヵ月後、ロスアラモスの研究所長を辞任したオッペンハイマーは、そうあいさつした。
戦後も核政策にたずさわったオッペンハイマーは、核の国際管理に向けて動き出す。いずれソ連が原爆を開発するのは目に見えている。その前に核管理の枠をつくり、果てしない軍拡に歯止めをかける必要があった。
だが皮肉にも、ソ連は戦時中すでに、重要な機密を手に入れていた。それもオッペンハイマーのすぐ足もとで、
「英国で重要な人物と接触してもらう。失敗は許されない」
47年夏。モスクワの国家保安省、のちの旧ソ連国家保安委員会(KGB)。出頭したフェクリソフ少佐はそう命じられた。接触の標的は暗号名「チャールズ」。英国の物理学者だ。
少佐は科学者から特訓を受け、原爆の知識を頭にたたき込んだ。数ヵ月後、大使館二等書記官のフォミンという名でロンドンに向かう。
9月28日夜。フェクリソフは指定のパブの反対側の路上で「チャールズ」を待った。低い額と青白い頭。写真で見た男が、レインコート姿で現れた。尾行がいないかどうか確認し、遅れてパブに入った。
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49年6月、ソ連は初の原爆実験に成功した。
「チャールズ」は本名クラウス・フックス。「今世紀もっとも危険なスパイ」と呼ばれたドイツ生まれの亡命科学者だった。彼は50年1月27日、英防諜機関の手が伸びたことを知って、スパイ活動を自供した。
「彼は最後まで私の素性を知らなかった」。84歳になるフェクリソフ元少佐は、モスクワの自宅アパートでふりかえる。
フックスの逮捕を、だれよりも清国に受け止めたのは米政府だった。彼は戦時中、ロスアラモスで行われた原爆製造の「マンハッタン計画」に深くかかわり、そのころからソ連に最高機密を流していた。驚くべきことに、戦後間もなく開かれた水爆開発の検討会にも出席していた。
彼は「自分以外にもソ連の情報源があった」と自供する。そこから上司だったオッペンハイマーの名前が浮かんだ。
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フックスがロスアラモスにいた当時、直属の上司は理論物理部長のハンス・ベーテ博士だった。その後ノーベル賞を受け、今も米コーネル大学で研究を続ける博士は、オッペンハイマースパイ疑惑をきっぱり否定する。
ではなぜ、彼は社会的に葬られたのだろう。
オッペンハイマーは早くから核兵器の国際管理を訴え、原爆より強大な水爆の開発に反対した。そうした態度が、水爆開発を推進したい勢力の邪魔になったのでしょう」
マンハッタン計画に参加し、戦時中から水爆研究を続けていたエドワード・テラー博士は、推進派の急先鋒だった。水爆による戦略爆撃で優位に立とうとする米空軍が、その後押しした。ベーテ博士はそう見る。
オッペンハイマーは原爆を製造したことを決して後悔しなかった。私もそうだ。ドイツ人が核分裂を発見した以上、われわれはナチスが原爆を開発すると考えた。選択の余地はなかった」
そう語ってしばらく黙ったあと、博士は続けた。
「それでも、原爆を世界に存在せしめたことは罪なのだ。戦後にオッペンハイマー軍縮に傾いたのは、その罪を知ったからだ」
諜報合戦がなくても、ソ連はいずれ独力で原爆を開発しただろう。だが、ベーテ博士はこう指摘する。
「53年にスターリンは死んだ。後継者のフルシチョフは彼ほど独歳者ではなく、反米でもなかった。ソ連の開発が数年遅れたら、歴史は変わっていたかもしれない」
軍拡競争の歴史を変えたかどうかはともかく、諜報戦は、少なくとも2人の人物の人生を変えた。
フックスは9年余の服役後、東独に迎えられ、88年に死んだ。
オッペンハイマーは身分保証を停止されたまま、67年に死んだ。そのあとに、「原爆の父」という呼称と、「スパイ」疑惑の汚名が残った。

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