じじぃの「人の死にざま_88_フェルミ」

あの人に会いたい エンリコ・フェルミ SPYSEE
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Discorso E.Fermi (1954) 動画 YouTube
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エンリコ・フェルミ 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
エンリコ・フェルミは、イタリア、ローマ出身の物理学者。実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。
ノーベル賞
1901年、ローマに生まれる。公務員である父アルベルト・フェルミと、教師である母イダ・デガティスとの間の第3子であった。1918年、ピサ高等師範学校に入学し、物理学を学ぶ。ここで非凡な才能を発揮し、すぐに教師達を追い越してしまった。教師から相対性理論について教えを請われたこともあった。1922年に学位を取得。
1926年、「フェルミ統計」に関する理論を発表し、世界的な名声を得た。フェルミ統計は、電子の振る舞いにパウリの排他原理を導入した新しい統計力学だった。同時期にポール・ディラックも同様の結論を導き出していたため、フェルミ統計は「フェルミディラック統計」とも呼ばれる。電子や陽子など、フェルミ統計に従う素粒子を総称してフェルミ粒子と呼ぶ。フェルミ統計は、金属の熱伝導や、白色矮星の安定性に関する理論的な基礎を与えるものである。
1926年、20代半ばにしてローマ大学理論物理学教授に就任した。ここで、ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。
アメリカへ】
妻のラウラ・カポーネはユダヤ人であった。そのため、ムッソリーニファシスト政権下では迫害を受ける。1938年のノーベル賞授賞式出席のためイタリアを出国。ストックホルムで賞を受け取ったが、そのままアメリカに亡命した。1939年、コロンビア大学の物理学教授となった。
アメリカでは核分裂反応の研究に従事し、1942年、世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功した。この原子炉は原子爆弾の材料となるプルトニウムを生産するために用いられた。アメリカ合衆国原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画でも中心的な役割を演じた。
しかし、その後の水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対をしている。第二次世界大戦後は宇宙線の研究を行った。1954年、癌により死去。死の床においても、点滴のしずくが落ちる間隔を測定し、流速を算出していたという。彼がイタリアで率いた同年代の研究仲間たち(ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ)は、後にアメリカやソビエトへ渡り、米ソの素粒子物理学の基礎を築いた。
エンリコ・フェルミにちなみ、原子番号100の元素はフェルミウム (Fermium)と命名されている。また、10のマイナス15乗メートルは1フェルミとされた。小惑星のひとつもフェルミと名付けられた。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【原子物理学者】エンリコ・フェルミ 【執筆者】リチャード・ローズ (一部抜粋しています)
19世紀が化学の世紀であれば、20世紀は物理学の世紀だった。物理学の発展のおかげで、医療用画像技術、原子炉、原子爆弾水素爆弾、ラジオとテレビ、トランジスタ、コンピュータ、レーザーなどが登場した。1900年以後、物理学の知識は飛躍的に増えていったので、すぐに理論と実験とはふたつの独立した専門分野となった。1901年ローマで生まれたエンリコ・フェルミは、非常に自信に満ちあふれたイタリア系アメリカ人で、そのふたつの分野のギャップを埋めた最後の物理学者だった。彼のベータ崩壊に関する理論は自然界の4つの力(重力、電磁気力、そして原子核内部で働く、強い力とフェルミの「弱い力」のうちの最後の発見に結びついた。
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1954年、フェルミはシカゴにおいてまだ若くして死んだ。死因は胃癌だった。米国で水爆を開発しようという計画が話し合われた時、彼は水爆を、「実際に使えば必ず大量虐殺を引き起こすような兵器」と呼び、反対した。その忠告が顧みられることなく、引き続いて起きた米ソの軍拡競争は、世界を破滅のふちまで追いやった。
しかし、彼が非常に重要な役割を演じた。核エネルギーを解き放つ方法の発見は、長期的に見れば有益な結果を生んだ。ほとんど尽きることのない新しいエネルギー源を開発し、世界規模の戦争をおそらく永久的に防止したのだ。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
フェルミ (1901-1954) 53歳で死亡
原爆が発明されるまで関与した物理学者は多いが、その中で最大の原動力がこのイタリア生まれのエンリコ・フェルミである。彼こそは33歳のとき、原子核中性子を打ちつけて、それによって人工的に放射線を出す能力を原子核に持たせる可能性を知った最初の人であった。
フェルミは、1938年にノーベル物理学賞を受賞したが、妻がユダヤ系のためファシズムの迫害を恐れて、翌1939年アメリカへ渡り、やがて帰化した。
彼とその研究グループが、シカゴ大学ウラニウムの連鎖反応の実験に成功したのは、1942年12月2日の午後3時半だった。
実験が成功した直後、参加者の一人コンプトン博士は、政府のウラン計画の責任者コナン博士に暗号で電話した。
「イタリアの航海者は新世界に到着しました!」
当時、日米両軍はガタルカナルをめぐって死闘をつづけていたが、この刹那に3年後のヒロシマナガサキの運命は決定された。
フェルミは1945年7月16日の、ニューメキシコ州アラモゴルド砂漠における最初の原爆実験にも、鉛に包まれたシャーマン戦車の中で立ち会った。
彼は、1954年ヨーロッパにゆき、いくつかの学会に出席したが、シカゴに帰って来たときは異常に痩せ細っていた。診断の結果、消化器系統のガンに冒されており、もう手術しても追いつかない状態になっていることが判明した。
あまり逸話のないこの物理学の天才は、その身辺にいた人の表現によれば「ソクラテス的平静さ」をもって11月28日にこの世を去った。最後の論文は「銀河系磁場と宇宙線の起源」であった。−−それは同時にアメリカがビキニ環礁で水爆の実験を行った年でもあった。
彼の手によってとき放たれた怪獣は、さらに悪夢のような大怪獣に成長していたのである。

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