じじぃの「科学・芸術_723_世界の文書・マンハッタン計画ノート」

 Manhattan Project Notebook (We’re cooking!)

『図説 世界を変えた100の文書(ドキュメント):易経からウィキリークスまで』 スコット・クリスチャンソン/著、松田和也/訳 創元社 2018年発行
マンハッタン計画ノート (1942年) より
暗号のようなコメントの書かれた鉛筆による数字の列――シカゴ大学の古いフットボール競技場地下のスカッシュ・コートで書かれたもの――は、第2次世界大戦における最重要機密計画と原子力時代の払暁(ふっぎょう)の、図表による目撃証言である。
1942年12月2日、真珠湾から1年も経たぬ内に、クリップボードとノートを手にした一団の男たちが奇妙な見かけの煉瓦のような構造物の周囲に集まった。大きさは24平方フィートほどで、スタッグ・フィールドの地下のコンクリートの子宮の隅に、床から天井まで聳えている。彼らの長でありノーベル賞物理学者であるエンリコ・フェルミ(1901 - 54)は、「シカゴ・バイル1号」と呼ばれるこの構造物を入念に組み立ててきた。これは4万に上る黒鉛ブロックと1万9000個のウラン地銀、カドミウムで覆われた木枠に設置された酸化ウラン燃料からできていた。
午後3時25分、フェルミは世界で初めての原子核分裂連鎖反応の起動と停止、すなわち原子の力の制御を目的とする実験を遂行していた。かれの計算通り、カドミウムで覆われた板は制御棒として機能し、核反応を制御した。それが暴走して人口密集地であるシカゴのど真ん中で災厄を引き起こす事態は避けられた。
全ての計器の表示を確認し、十分なデータを記録したフェルミと同僚たちは実験成功を宣言した。技術者の1人は、その螺旋綴じのノートに「やったね!(We’re cooking!)」と記した。
キャンティのグラスで成功を祝した後、各人はこの歴史的偉業の記念として、ボトルの袋に自らの名を記した――世界初の、制御された自動継続の核分裂反応である。これにより、原子核分裂によって放出される莫大なエネルギーの利用が可能となった。その日、彼らが生み出した反応はあまりにも弱すぎて(僅か0.5ワット)電球のひとつ灯せぬ代物だったが、そこのいた誰もが、世界は2度と後戻りできなくなったことを知っていた。だがその後、何年もの間、そのことを一言たりとも他人に話すことのできた者はいない。何故ならこれこそアメリカの最高機密であるマンハッタン計画、すなわち原子爆弾製作という巨大事業の枢要であったからだ。
より大きく、より危険な核反応を引き起こすため、フェルミは実験場をシカゴから辺鄙なアルゴンヌの森に移すことを余儀なくされた。
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1945年の日本への最初の2つの原子爆弾の投下と共に、フェルミは「原子力時代の父」として知られるようになった。彼が有名な実験を行なった場所には現在、ヘンリー・ムーアの彫刻『核エネルギー』と銘板が設置されている。
マンハッタン計画ノート>は<原子力エネルギー委員会記録>の<記録群326>の一部であり、合衆国国立文書庫に収められている。