じじぃの「人の死にざま_1754_リーゼ・マイトナー(物理学者)」

Lise Meitner Final 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7Iu-LNIAbKY
リーゼ・マイトナー

ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによる核分裂現象の発見 (16-03-03-11) 1998年05月
1.ウラン放射化生成物の分析
ウランを中性子で照射した場合に生ずる放射化生成物の分析は、フェルミ達の実験以降、ベルリンのハーン(Otto Hahn、独、1879〜1968)、マイトナー(Lise Meitner、オーストリア、1878〜1968)、シュトラスマン(Fritz Strassmann、独、1902〜)のチームによって遂行された。
ベルリンのチームは、半減期23分でベータ壊変するウランの同位体(現在、ウラン239として知られており、半減期23.47分で超ウラン元素ネプツニウム239に壊変する)を発見したほか、ベータ壊変して次々に他の元素に移っていくいくつかの放射性核種の壊変系列を見い出した。最初これらは、超ウラン元素に属するのではないかと考えられた。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=16-03-03-11
『物理学者の墓を訪ねる ひらめきの秘密を求めて』 山口栄一/著 日経BP社 2017年発行
リーゼ・マイトナー 苔むし朽ちかけた墓石 (一部抜粋しています)
悲しい墓だった。「人間性を忘れなかった物理学者」と記された墓は、忘れ去られていた。ロンドン郊外のブライムレイにある彼女の墓は今にも崩れそうだ。
ナチスに捕まる寸前にドイツを脱出してスウェーデンに亡命。そこで、同僚のオットー・ハーンからの手紙を受け取る。理解できない実験結果だという。
彼女はそれを見た瞬間にウランの核分裂反応が起きていることを看破。原爆が可能であることを見いだす。そこで彼女はその結果をコペンハーゲンニールス・ボーアに伝え、その科学知が米国に伝わった。こうして原爆が完成する。
彼女は、広島・長崎に原爆が落とされたのを知って、自分のせいだと泣き崩れる。それからほどなく研究を捨てた。
ミュンヘンからケンブリッジに戻る途中に、リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)の墓を訪ねることにした。オーストリア生まれのユダヤ人であるマイトナーも、ハイゼンベルグとは別の文脈で原爆開発のプロセスに登場する物理学者だ。
科学界のユダヤ人差別と女性差別にさらされながら、オットー・ハーンと30年以上にわたり共同研究を重ねた。ドイツを愛し、1933年にナチスが政権を掌握した後もドイツに残留すると決めていた。
しかし、ユダヤ人であることを示す「黄色い六芒星」のバッチを胸にかけることを強要され、街角で殴られたり唾を吐られたりするようになったマイトナーは、1938年に強制収容所に入れられる寸前にスウェーデンへの亡命を余儀なくされた。
その直後にハーンは、ウランに中性子をぶつける実験でバリウムができているのを発見。ハーンから手紙で相談を受けたマイトナーは、核分裂反応が起きていることを看破した。ウランによる原子爆弾の可能性が、このときマイトナーによって発見されたのである。
ところが、ハーンはナチスを恐れて論文発表の際にマイトナーの名を外し、その後も核分裂の発見者としてマイトナーの名を挙げることはなかった。1944年のノーベル化学賞はハーンだけに贈られた。
マイトナーは戦時中、イギリスから要請された原爆開発への協力を断固として拒否した。原爆が広島と長崎に落とされたことを知った時は嘆き悲しみ、ハーンからの実験結果を見て核分裂反応という新概念に世界で初めてたどり着いた自らを呪った。
7年後には一切の研究を絶ち、彼女の生涯を映画化したいという要請もかたくなに拒んだ。最期はケンブリッジの老人ホームで、89歳で亡くなり、その遺志によってロンドン南西の田舎町ブラムレイ(Bramley)の聖ジェームス教会(St.Jame's Church)の墓地に葬られた。