じじぃの「人の死にざま_604_永田・鉄山」

永田鉄山 - あのひと検索 SPYSEE
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プライムニュース 「2015年幕開けに考える “戦後70年”とは何なのか」 2015年1月5日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】半藤一利(作家)、加藤陽子東京大学大学院教授)
太平洋戦争終結から70年を迎える2015年。年初の番組では、昭和史研究の第一人者、作家半藤一利氏をスタジオに招く。
日本はなぜ戦争に突入することになったのか?戦後をどう位置付けてきたのか?
年頭に当たり、歴史の視点から“戦後70年”を徹底検証し、2015年を読み解くヒントを探る。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150105_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150105_1
永田 鉄山:永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる 思い出アルバム
ソ連を重視する永田鉄山と「中国一撃論」を主張する小畑敏四郎の対立が表面化、一夕会は永田の統制派と小畑の皇道派に別れて睨み合い、次第に対立を深めていく。
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あらすじ 解説 叛乱 goo 映画
昭和十年八月十二日。福山から台湾に転出を命ぜられていた相沢中佐は、赴任の途中、陸軍省に立ち寄り、軍務局長永田鉄山を一刀のもとに斬殺した。意外にも犯人には毫も罪の意識がなく、兇行直後、平然と任地に出発しようとして傍人を愕かした。それも理わり、永田少将は満洲事変によってふくれあがった日本陸軍の規模をそのまま対支対ソ戦に切換えるべく財閥と結んで国家総動員体制を企図したいわゆる統制派の中心人物であり、これに対して資本主義による農漁村の疲弊に憤り、腐敗した財界、政界、軍閥を倒して天皇親政の国家改造を断行しようとする皇道派の、相沢はもっとも純粋な分子だった。果然、「相沢につづけ」の合言葉が皇道派青年将校のうちに湧きあがった。これら直接行動派の急尖鋒は、歩一の栗原中尉、それを時機至らずとして抑えているのは同じ歩一の山口大尉、そして民間の志士北一輝西田税らであるが、相沢公判をめぐる統制派の陰謀に刺戟され、かれらの主張が早急に蹶起へ傾むきかけた矢先、第一師団の満洲派遣が決定した。それも三月。「二月にやろう」との声が歩一から歩三に拡がるが、歩三の安藤大尉のみは依然慎重にかまえている。しかし、その彼も一夜娼家で農村の身売娘の悲惨さを目のあたりにして、同志の声に従う決心をした。西田も山口大尉ももはや大勢をせきとめることは不可能だった。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14582/story.html
永田鉄山 ウィキペディアWikipedia)より
永田鉄山は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任し、陸軍省軍務局長。階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。陸軍三羽烏の一人。ルーデンドルフの政治支配と国家総動員計画に心酔し、陸軍で最初にドイツから国防国家建設の思想と計画を持ち込んだ。
【略歴・人物】
長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
明治41年(1908年)に陸軍大学校(23期)入校。明治43年(1910年)11月に陸軍大学校を2位(首席は梅津美治郎)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。他の同期に蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。
その後、大正9年1920年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。大正10年(1921年)10月頃、陸士同期である小畑、岡村寧次や一期下の東條英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。
昭和8年(1933年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていなしし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。
対支戦争を考えていた永田は、対ソ準備論の小畑と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。
昭和9年(1934年)に陸軍省軍務局長となる。
昭和10年(1935年)7月15日の異動において真崎甚三郎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるものであり、統帥権の干犯であると皇道派に喧伝され、それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫る。同年8月12日、その相沢に軍務局長室で斬殺された(相沢事件)。
企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言っていた。
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた英才であった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
永田鉄山(ながたてつざん) (1884-1935) 51歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和10年8月12日朝、陸軍軍務局長室で、軍務局長永田鉄山中将は、東京憲兵隊長新見英夫大佐から、在京皇道派青年将校らの動向について報告を聞いていた。
9時45分ごろ、ドアをあけて、頬骨の貼った屈強な一人の将校がはいって来て、いきなり軍刀をぬくと突進して来た。
永田は逃げようとして、背後から2太刀斬りつけられ、ドアの把手(とって)をつかんだまま開けることが出来なくなった。襲撃者は刀を両手に持ち替えると、永田の背から刺し通した。そして廊下へ出ていった。
永田局長は、10時30分に絶命した。
襲撃者は陸軍皇道派に属する相沢三郎中佐で、統制派の実力者永田が皇道派を排除しようとしていると思い、憤激してこの凶行に出たものであった。
彼は血まみれになって、整備局長室に戻り、山岡整備局長が動顛(どうてん)して、「これからどうするのか」と訊(き)いたのに対して、「これから買物をして、台湾に赴任します」と、答えた。
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永田は陸軍で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」といわれた逸材であった。当時日本に君臨していた軍部の、その最大の実力者が突如横死したのだから、ふつうなら「もし彼生きてありせば」という声がのちに出るはずなのだが、これが全然出ない。統制派も皇道派も、国民からすれば同じ穴の「虎」で、そんな空想の働く余地はなかったのである。

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