じじぃの「人の死にざま_1081_永田・洋子」

永田洋子 - あのひと検索 SPYSEE
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あさま山荘事件 part1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-omqpElkk14
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=r89FY14Ax38
永田洋子 ウィキペディアWikipedia)より
永田洋子(ながたひろこ、1945年(昭和20年)2月8日 - 2011年(平成23年)2月5日)は、日本の新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。リンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に病気のため獄死。
【逸話】
・山岳ベースで殺されたメンバーのうち、女性メンバー、特にそのうちの三名(重信房子の親友で赤軍派幹部の妻だった遠山美枝子、美人と言われていた革命左派のメンバー、吉野雅邦と事実婚していた妊娠8カ月のメンバー)は、永田の嫉妬によって殺されたという見方がある。永田はこのような見方を否定しており、女性性(遠山について)や都市的な自主性(他の二人について)を、永田自身を含む連合赤軍が否定的に捉えていたことが原因だとしている。
・上記の遠山は、総括の過程で過去の男性関係を洗いざらい白状させられた上、自分の顔を自分で殴ることを命じられた。そのようにした彼女のところに永田洋子は鏡を持って行き、見分けもつかないほど腫れ上がった顔をわざわざ見させた。しかしながら、彼女を縛り上げた連合赤軍の男性メンバーが彼女に「男と寝た時みたいに足を拡げろ」と揶揄したときは「そういうのは矮小よ!」と批判した。遠山はその後死亡した。
・坂東國男は著書『永田洋子さんへの手紙』の中で「私や同志達に映っていた永田同志は、人間的感情のひとかけらもない「鬼ババア」でしかありませんでした」と書いている。なお、坂東は山岳ベース事件において森、永田、坂東自身を含む指導部全体がそのようであったとしており、自身についても「永田同志や下部の同志に映る私の実像は、「鬼のように冷酷」に同志を告発し、同志を死へ至らしめる恐ろしい人間であったし、動揺など一切しない人間として存在したわけです。」と述べている。

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文藝春秋 創刊90周年二月号
日本が震撼した47大事件の「目撃者」 連合赤軍 永田洋子が「切るしかない」 【執筆者】雪野建作(会社役員) (一部抜粋しています)
若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍』(2008年公開)を見て驚いたのは、永田洋子役の女優さんの鬼気迫る演技です。
頭に浮かんだ言葉をそのまま、粘着質な話し方で、切れ目なくしゃべり続ける。それでいながら不思議に、聴く者を惹きつける力がある。まさに永田そのものでした。
初めて永田に会ったのは、1968年ごろ。東京・大井町の喫茶店だったでしょうか。私は横浜国大の学生で、薬剤師として働いていた2歳上の永田は、「革命左派」の党員。見た目はごく普通の女性でした。
永田は理論派でもないし、さして人望があったわけでもありません。ただ熱意は皆が認めていました。彼女と一緒に街頭カンパ活動をすることの多かった仲間によれば、常に獲得した額はトップだったそうです。「街頭で通行人とチョコチョコと話し込んでは、カンパをもらってくる」そうで、どこか人を惹きつける能力がありました。
また、喜怒哀楽を隠さない女性で、男からすると、何かしてあげたいと思わせる人でした。実際、のちに「総括」で共に主導的な役割を果たした「赤軍派」の指導者、森恒夫の心を惹きつけています。
永田が組織内で頭角を現すのは、武装闘争を推進した「革命左派」の獄中指導者の強い信任があったからです。私たちの属した組織は、当初、労働者や女性のための大衆的な運動をしていましたが、次第に武装闘争路線に変質していきました。当然、組織内では色いろな軋轢がありましたが、永田は、その指導者の思想を無批判に受け入れていました。彼女は、確固とした自己がないので、常に身近な誰かに傾倒するところがありました。
70年の末、名古屋で組織づくりをしていた私は、非公然部隊へ合流するよう指示されたので、ひとまず永田たちと合流しました。そのとき永田が、ある古参の女性指導者を「切るしかない」と言ったのを聞きました。理由は「引っ越しのとき他人に荷造りをやらせたから」。本当は、理論家で筆のたつその女性に、自分の地位が脅かされるのを恐れたのでしょう。
その後、永田たちは、榛名山、迦葉山、妙義山の「山岳ベース」を転々としながら、「指輪をしている」「化粧の時間が長い」といった理由で、女性の同志を次々と「総括」し、死に追いやっています。この「気に入らない人間は、些細な理由を根拠に排除する」という考え方は、前々から彼女が持っていたものなのです。
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あさま山荘事件」を知ったのは小菅の拘置所の中です。新聞が読めたし、ラジオも所内放送で聴けましたから。この事件は、計画的な籠城でもなく、警察に追い込まれた末の行動ですので、「敗北だな」と思った程度でしたが、その後の報道で「総括」を知ったときは、天が落ちたような衝撃をうけました。殺された12人の大部分は、よく知っている人でしたから。「こんなことになっちゃった。永田は気がふれたんじゃないか」と思いました。
「総括」を永田と主導し、逮捕後に獄中で自殺した森にも一度、会っています。ガッチリとした体格で押し出しが強く、自信に満ちた話し方をする人でした。しかし、その言葉には実行が伴わない。ところが永田は、その森に心酔していて、彼の言葉を真に受けていました。「山」で連合赤軍を結成した頃は森の関西弁を真似て、「あかん」などと口にしていたそうです。
実行力はないけど、言葉だけは過激な森。一方で、自分の考えはないけど実行力はある永田。互いに欠けているものを補う関係が、あんな悲劇を招いたと思います。

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