じじぃの「人の死にざま_1340_大浦・慶」

  

大浦慶 ウィキペディアWikipedia)より
大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日(1828年7月30日) - 明治17年1884年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人。日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ・道永栄と並ぶ長崎三女傑のひとり。
【遠山事件】
明治4年1871年)6月、慶の元へ熊本藩士で遠山一也が訪れ、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したため、慶に保証人になってほしいと頼んできた。遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に使い、偽の印を押した証書を見せた。また、遠山は品川藤十郎の通詞でもあり、品川もしきりに連判することを勧めたため、慶は保証人を引き受けることにした。
明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3,000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。

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『日本史の中の女性逸話事典. 歴史を彩った女性たち』 中江克己/著 東京堂出版 2000年発行
大浦慶――九州一の茶商になった女傑 (一部抜粋しています)
幕末の動乱期、日本茶をはじめて外国へ輸出し、女貿易商として名を馳せた大浦慶は、坂本龍馬ら若き志士たちを支援した女傑としても知られている。
慶は文政11年(1828)、長崎で油屋を営む太平治の一人娘として生まれた
17歳のとき、婿を迎えて結婚したが、まもなく家業が傾きはじめる。しかし、夫はなにひとつ手を打つことができない。慶はそうしたことに嫌気ださし、ほどなく離婚してしまった。
慶の性格は男っぽく、気丈で、機を見るのに敏というところもあった。当時の長崎は、貿易港として外国に扉を開いている唯一の国際都市だったから、諸外国の情報や風俗があふれている。慶はその長崎で、新しい波にのまれながら成長しただけに、これからは外国を相手に商売をすべきだ、と考えていた。
やがて嘉永6年(1853)、慶は外国で茶の需要が高いことを知ると、長崎出島のオランダ商人テキストルに依頼し、肥前嬉野(佐賀県藤津郡嬉野町)の茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビアへ送ってもらったのである。彼女が26歳のときのことだった。
ところが、いくらたってもその反応がない。じりじりとして待つ慶のところに注文が舞い込んだのは、なんと3年後のことだった。イギリス人商人オルトが慶のもとを訪れ、10万斤(60トン)という大量の日本茶を注文したのである。
あまりにも膨大な量だから、普通なら恐れをなして断ったにちがいない。しかし、慶は顔色を変えず、ふたつ返事で引き受けてしまったが、嬉野の茶だけではそれだけの量はそろわない。そこで慶は八方に手を尽くし、九州各地の茶を買い集めた。
それでも集めることができたのは注文の10分の1、1万斤にしかすぎない。とりあえず、この茶を積んだ船が長崎県から出航したが、これが日本茶輸出の第一歩となった。2年後には残りの9万斤を輸出し、外国商人から信頼できる商人との評価をえたのである。
こうして慶は九州一の茶商にのし上がった。しかし、明治4年(1871)、詐欺事件に巻き込まれる。
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明治17年(1884)、慶は病床に臥していたが、その年の4月6日、茶の輸出に功があったとして、農商務省から功労褒賞をもらった。それが晩年のせめてもの慰めだった。その7日後の4月13日、慶は波乱に満ちた57歳の生涯を終えた。

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