じじぃの「科学・芸術_681_日本の近代化・機織(はたお)り機」

TOYOTA AIRJET LOOMS 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=E__Jrh5Pnhs
松斎吟光 「貴女裁縫之図」

The Era of Modernization in Japan
https://www.facinghistory.org/resource-library/video/era-modernization-japan
『文明: 西洋が覇権をとれた6つの真因』 ニーアル・ファーガソン/著、仙名紀/訳 勁草書房 2012年発行
西洋に向かって より
海外投資ブームがピークに達したころ――1872年、1887年、および1913年――には、イギリスの経常黒字はGDPの7パーセントを上回っていた。イギリスの企業は綿製品の輸出だけでなく、綿の加工機械やそれを購入する資金まで輸出できる態勢にあった。
だがおそらく、この最初のグローバリゼ―ションで最も目立ったのは、縫製技術だった。洋服は猛スピードで世界に浸透し、それまでの衣装は、歴史という洋服カゴに収納された。それは、シンガー製造会社が表向きに意図したことではなかった。1892年にシカゴで開催された「偉大なコロンブス」の世界博覧会――新世界発見の400周年記念――のために、シンガーは、肌の色の異なる人たち全員が伝統的な衣装を着て、楽しそうにシンガーミシンを使っている絵を描いた「世界のコスチューム」と呼ばれる、36種類の名刺を作った。ハンガリーのスモックから日本の着物に至るまで、どの衣装もシンガーミシン特有の金属アームの下の1針によって恩恵を受ける。ボスニアビルマの人たちも、アイザック・メリットの発明品から恩恵を受けたし、アルジェリアからズールーランドに至るすべての人も同じだ。シンガーミシンが、シャムの王様、ブラジルのドム・ペドロ2世や日本の裕仁天皇のような外国の元首たちへの寄贈品になったことも不思議ではない。
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17年後の1889(明治22)年、日本で帝国憲法が正式に発布された日に、天皇はヨーロッパの陸軍元帥の制服を着用し、皇后はきわめて魅惑的なブルーとピンクのイブニングドレスを召され、閣僚たちは、金の肩章を付けた黒のチュニック(軍隊の制服の短い上着)を身につけた。
このように西洋の様式を真似る風潮を嫌う人たちもいた。西洋かぶれの日本人をサルに見立てて描いた西洋のマンガ家たちもいた。日本人の伝統を重んじる人たちもまた、自己卑下する要素の多さにうんざりした。1878(明治11)年5月14日、大久保利通は東京赤坂離宮でおこなわれる国務院の会合に向かう途中で7人のサムライに襲われ、むごい形で殺害されたが、とどめの一撃は、刀が喉を突き通って下の地面に刺さるほどの力だった。大村益次郎は日本の軍隊を西洋化したが、彼もまた明治時代の伝統主義者の刺客の犠牲になった。それらの伝統主義者たちは、1930年代まで西洋派の大臣たちに何度も脅しの姿勢を見せた。だが、元に戻らなかった。日本人は武士道のサムライの規範に愛着を感じていたが、多くの人々は、貿易協定で対等の条約を結び、一般的な国際法を受け入れて、もし日本がヨーロッパやアメリカの帝国と同格になりたいなら西洋化は避けられない、という大久保の論旨に賛同していた。
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日本人は、日本が発展するためには西洋の衣服が必須条件だと理解していた。これは単に、表面を作り変えるだけではない。世界史において、日本は非西洋社会ではじめて産業革命の変革力を経験した国として、重要な突破口になった。
新しいドレスコードが広まったのは、日本の線維工業の急速な成長と時期を同じくした。1907(明治40)年から24(大正13)年の間に、日本の紡績工場の数は118から232へと倍増し、紡錘の数は3倍以上、機織(はたお)り機の数は7倍に増えた。日本の繊維工場では、1900(明治33)年までに工場労働者の63パーセントを雇用していた。10年後には、日本がアジアで唯一の縫い糸、編み糸、布の総合輸出国になり、その輸出量はドイツ、フランス、イタリアを超えていた。日本の繊維労働者たちの生産性は、アジアでも飛び抜けて高かった。
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西洋と同じように、1つの工業で突破口を開けば、次の突破口につながった。イギリスで設計された日本初の鉄道は、1870年代の書記に東京と横浜の間に敷設された。まもなく東京の銀座を皮切りに、日本の大都会では、電線、街灯、鉄橋、煉瓦の壁などが目立ち始めた。4大「財閥」と呼ばれる三井、三菱、住友、安田の複合企業が、経済界の主役として登場した。イギリス人の指導のもとに、日本人は蒸気機関車を買う側からいち早く製造する側に転じた。1929(昭和4)年になると、プラット・ブラザーズ・オブ・オールダム社――20世紀の隆盛期には紡績機械の主要工場だった――は、日本の豊田自動織機の発明に対して特許使用料を払っていた。