じじぃの「人の死にざま_600_溝口・健」

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山路ふみ子の『愛怨峡』 動画 YouTUbe
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雨月物語」予告編 動画 YouTUbe
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溝口健二 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
溝口健二は、東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠の一人である。
【来歴】
東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。
1920年大正9年)に日活向島撮影所に入社。監督助手として小口忠や田中栄三らについたのを経て、1923年(大正12年)2月、先輩監督の若山治のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たした。
1926年(大正15年)に下町の情緒を下敷きにした女性劇の佳作『紙人形 春の囁き』 『狂恋の女師匠』を発表してからは女性を描く独特の感性にさらに磨きをかけ、1930年(昭和5年)『唐人お吉』などが好評を博した。この間、昭和初期の左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』 『しかも彼等は行く』などの傾向映画も監督してリアリズム追求に邁進したが、溝口自身は左翼思想の持ち主でもなく、プロレタリア運動が退潮後の7年には新興キネマに招かれて国策映画『満蒙建国の黎明』を撮り、変わり身の早いところも見せている。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で復帰したが、『元禄忠臣蔵』での大失敗が尾を引いたのか不調が続いた。1949年(昭和24年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性のシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後は舟橋聖一原作の『雪夫人絵図』、谷崎潤一郎原作の『お遊さま』、大岡昇平原作の『武蔵野夫人』といった文芸映画を作り、1952年(昭和27年)には井原西鶴の『好色一代女』を基に絹代出演で撮った『西鶴一代女』を製作。当初国内ではベストテン9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、サンマルコ銀獅子賞を受賞。
1953年(昭和28年)には、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作『雨月物語』が同映画祭でサンマルコ銀獅子賞1位を獲得 (この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。この頃から日本国外にも熱烈な溝口ファンが生まれ始め、1954年(昭和29年)にも森鴎外山椒大夫』でも同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。3年連続の同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。
1954年、『近松物語』で芸術選奨ブルーリボン賞監督賞を受賞。その後も『祇園囃子』 『噂の女』 『楊貴妃』 『新・平家物語』と優れた作品を生み出すが、1956年(昭和31年)売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』が遺作となり、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、「ちょっと病院に行ってくる」と告げて病院に行くと白血病だとわかり急遽入院したが、その当時の医学では手の施しようがなく、そのまま回復に向かうことなくこの世を去った。享年58。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
溝口健二(みぞぐちけんじ) (1898-1956) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
溝口健二は、昭和31年「赤線地帯」を発表後、次回作「大阪物語」を準備中、急速に肉体が衰弱し、足が紫色に腫(は)れあがるという異常を示し、5月に京都府立医大病院に入院した。
溝口には知らされなかったが、病名は骨髄単核細胞白血病、いわゆる血液ガンであった。
「これは大映の1専属監督じゃない。日本の国宝です」と、大映社長永田雅一は病院長にいった。「もし溝口の病気を治せる薬が日本にないというなら、私が世界のどこからでも手にいれます」
溝口はしかし、自分が回復不能の病気にかかったことをまだ知らなかった。
8月半ば、「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒太夫」など、戦後のほとんどの溝口の名作に主演した女優田中絹代が見舞った。この日本の「国宝的」大監督と、「国宝的」大女優は、おたがいに愛情をいだき、現実に何度か結ばれながら、3年前田中が監督をやることについて溝口が、心配のあまり反対し、「田中のアタマでは監督はやれません」などいったという話を聞いて、田中が意地とプライドから反発し、以来絶交状態になっていたのだが、溝口が死床にあることを知って、田中が見舞ったものであり、これが2人の最後の別れとなった。
2人の話は淡々たるものであったが、溝口の顔はかがやいていた。
この日から1週間ばかりで溝口は死ぬのである。
死ぬ前日の午後、彼はベッドに起き上って、鉛筆で判読しがたい文字を紙に書いた。
「もう新涼だ。
 早く撮影所の諸君と
 楽しく仕事がしたい」
最後の助監督をつとめた安東元は語る。「それを書かれるときにですね。急に、席を切ったように泣き出されましてね」
しかしその翌日は、じっと横たわってはいられないほどの苦痛と、しかも身体を動かす力もない臨終を迎えなければならなかった。
それでも彼は、自分が死んだらすぐに眼をクリぬいて、片眼の視力を失っている養女に移植してくれ、と妻のふじにいった。
ただしふじは実質上は妻であったが、法律上の妻千恵子の弟の未亡人で、千恵子は15年前発狂し、このときもまだ精神病院に入院していた。
8月24日午前1時55分、彼は永眠した。

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