じじぃの「写楽・天才絵師の正体を追う!日本美術界最大のミステリー」

写楽幻の肉筆画 0001 動画 YouTube
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BOSTON美術館浮世絵名品展 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OffDfyxBhYo&feature=related
写楽の肉筆画 画像
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写楽 Google 検索
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東洲斎写楽 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、旧字体:東洲齋寫樂、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵師である。
寛政6年(1794年)から翌年にかけて、およそ10ヵ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。

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東洲斎写楽はもういない』 明石散人、佐々木幹雄/著 講談社 1990年発行
「東洲齋寫樂」命名の由来 (一部抜粋しています)
東洲齋は「とうじゅうさい」であるのは先に述べた通りであるが、「斎藤十郎兵衛=さいとう・じゅうろべえ」であれば、寫樂の斎号の由来は俄然現実性を帯びることになる。
それだけで十分であるはずなのに、「とう」や「じゆう」は蔦屋重三郎の名からとったというカモフラージュになることもY(明石散人)氏は指摘している。「じゆう」はもちろん重三郎の「重」であり、蔦重の狂歌名は蔦唐丸(つたのからまる)だから「唐」の字が「とう」に通音する。斎藤十郎兵衛が「斎藤十」から「藤十斎=とうじゆうさい」と表記しなかったのは、そのままだとすぐに素性が割れてしまうからだが、「東洲齋」としたのは、「東」が春の意味を持ち能の「春藤流」に通じ、「洲」が十郎兵衛の住んでいた八丁掘の立地環境を表わすからなのである。Y氏は実にここまで考察し、指摘しているのだ。「東洲齋」名については様々な角度から必要十分条件を充たしているのだ。
では「寫樂」名はどうか? これはやはり「樂(らく)を寫す」を意味する。この場合の「樂」とは「能樂(のうがく)の樂を表わす。能が能楽(のうがく)の名で呼ばれるようになったのは明治以降と言われているから、正しくは「申楽(猿楽)」の楽と云うべきかも知れない。つまり、寫樂の名は「能を寫しとった」と解釈出来る。「がく」とも「らく」とも読めるから「しゃがく」と読む可能性もあるが、単独で葉「らく」と読むべきことをY氏は『徳川実記』などで確認している。
能にとって一番重要な小道具である能面は、「本面」と呼ばれる名人の作品を代々模倣して作られるが、面を模倣して制作することを、能の世界では「寫す」と言う。だから「寫樂」なのだ。
もうひとつ重要な要素がある。寫樂の落款の字は「寫」が使われているが、江戸後期の漢字辞典でこの「寫」は「精神をも寫し取る」の意味と明示され、今日の「写」の旧字である「寫」とは明確に使い分けられていたことが記載されていた。不思議なことに、この「寫」の字の意味について論究した「写楽本」はない。
十郎兵衛は能役者である(この「能役者」の言葉が極めて重要な意味を持つのだが、それについては後述する)。能役者が描いた歌舞伎役者像はフィーリングの異なるものとなり、クルトを始めとした多くの先達が能面との共通性を指摘したのである。Y氏も7つのポイントにおいて、能面との具体的な共通性を挙げている。それに加えて、寫樂作品に極めて特徴的な「鉤型」の指、全身像作品での「八頭身」での描き方などで能との共通点もとりあげている。
『浮世絵類考』にある「あらぬさま」の表現は、歌舞伎役者を必要以上に醜怪に描いたからではなく、作品全体のフィーリングの違いを指しているとY氏は解釈するのである。
こういった発言は、寫樂作品を心底から愛している美術収集家からは絶対に出てこないものだろう。人間は、自分の持っているもの、愛するものに対し少しでも否定的な見解を示されたら、拒否感覚が働くものである。今まで寫樂作品は、歌舞伎役者の特定の演目での演技を描いていたと思っていたのが、実は能役者が能の型で描いていると言われたら、イメージのギャップに驚いてしまうだろう。中には、怒りながら否定する人がいるかもしれない。Y氏の挙げた例でいえば、力士を野球選手のフィーリングで描くのと同じだと言うことだ。千代の富士が往年の王のように1本足でバットをかまえたポーズで立っているようなもの、と言えば極端だろうか。そんなポーズの絵を見た大相撲ファンはどう思うのだろうか?
Y氏が言いたいのは、現代におけるプロマイドのような存在である歌舞伎役者の浮世絵が、特定の演目の特定の場面と確定することにどれ程の意味があるか、ということである。例えば南野陽子のプロマイドは、彼女の容姿がいかにうまく撮れているかが問題であって、ファンにとっては、いつ、どこのスタジオ(あるいはロケ地)で撮られたかは全くと言って良いほど関心の外なのだ。

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NHKスペシャル 「浮世絵ミステリー 写楽〜天才絵師の正体を追う〜」 2011年5月8日
【出演者】中村獅童 【語り】長谷川勝彦
ギリシャ・コルフ島で、写楽の肉筆画が発見された。ギリシャ人外交官が20世紀初頭のパリで収集したコレクションの中に埋もれていたのだ。新発見の肉筆画は、写楽の実像に迫る重要な手がかりを与えてくれることになった。
写楽ほど謎に包まれた絵師はいない。江戸中期の画壇に突如現れ、大胆な構図の役者絵で鮮烈なデビューを飾るが、わずか10ヵ月活動しただけで忽然と消えた。歴史資料には、その素顔を伺わせる記録がほとんど残されていない。「写楽は誰だったのか?」。その正体を巡って、歌麿説、北斎説など40近い数の仮説が提起され、日本美術史上最大の争点のひとつとなってきた。だが、ギリシャの肉筆画が、その論争に終止符を打とうとしている。謎の絵師・写楽の正体とは?
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110508.html
どうでもいい、じじぃの日記。
5/8、『NHKスペシャル』で「浮世絵ミステリー 写楽〜天才絵師の正体を追う〜」を観た。
大体、こんな内容だった。 (さわりのみ)
「江戸の町に突如現れ、風の如く去った天才絵師」。
同時代記録ではこの一文だけです。
あまりに真を描こうと、あってはならない様に描いたので、長く活動せずに1年で終わる
絵師の名は東洲斎写楽。その生涯は謎に包まれています。活動したのはわずか10ヵ月。145枚の作品を残し、忽然と姿を消しています。
その本名すら、明らかではありません。写楽の正体は誰なのか。これまでに40近い数の仮説が出され、日本美術界最大のミステリーとされてきました。
十返舎一九 葛飾北斎 円山応挙 齋藤十郎兵衛 蔦谷重三郎 喜多川歌麿 安藤広重 谷文晁 松平定信 司馬江漢 蜂須賀重喜 ・・・
2008年夏、写楽の正体を突き止める重要な手がかりが発見されました。
アドリア海に浮かぶギリシャのコルフ島。20世紀初頭、ギリシャ人外交官がパリで集めた日本の美術品7000点余りが納められている。ここに調査されることもなく埋もれていた作品がありました。
扇子に描かれた歌舞伎調の男女の2人の絵が映像に出てきた。
扇子に描かれた絵。署名は「東洲斎写楽」。
日本から浮世絵の専門家たちが調査に向かいました。
日本からの専門家が扇子に描かれた絵を虫メガネで調べている映像が出てきた。
これまで確認されている絵はすべて版画。肉筆画は1枚もありません。絵師の筆使いの跡が残る肉筆画は写楽の正体に近づく重要な手がかりです。これをきっかけにかってない規模の写楽研究が始まりました。
写楽が姿を消してから200年余り。今浮き上がるその正体とは。
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じじぃの感想
江戸時代の浮世絵は描き手と、それをもとに版画を作る人の分業制になっていた。版画では肉筆画の細かい線の特徴が消えてしまっている。
写楽葛飾北斎が一時期写楽と名乗っていたとかがあったので写楽北斎と思っていたが、肉筆画で比較するとまったく異なる。版画では描き手の線の特徴は消え、彫り師の線になってしまう。
北斎とか歌麿が描いた浮世絵の筆の線はなめらかで、ギリシャで見つかった浮世絵の筆の線はギザギザ線なのである。肉筆画には描き手のタッチが残っている。いわゆる絵師としての修業を積んだ者の伸びやかで勢いのある線がこのギリシャで見つかった浮世絵にはないのだ。
筆の使い方、線の運び、耳などの描き方等を調べた結果、写楽は諸説言われている絵師ではないことが判明した。
版元の蔦屋重三郎と十郎兵衛とのつながりから、阿波の能役者斎藤十郎兵衛が自分の素性がばれるのをおそれ、かつ自分が描いたという痕跡を残すために東洲齋寫樂として描いたことが分かった。
佐々木幹雄著『東洲斎写楽はもういない』に、こんなことが書かれている。
「例えば南野陽子のプロマイドは、彼女の容姿がいかにうまく撮れているかが問題であって、ファンにとっては、いつ、どこのスタジオ(あるいはロケ地)で撮られたかは全くと言って良いほど関心の外なのだ」
藤十郎兵衛は能の世界で脇役の家柄であり、自分の才能を正当に評価してもらえない身分だった。
藤十郎兵衛の才能は浮世絵で開花したのである。