じじぃの「人の死にざま_559_徳川・吉宗」

徳川吉宗 - あのひと検索 SPYSEE
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徳川吉宗と宗春 倹約か積極政策か? 動画 YouTube
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The Last Shogun 動画 YouTube
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第50回 徳川吉宗享保の改革
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp50a.html
徳川吉宗 ウィキペディアWikipedia) より
徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍である。将軍就任以前は紀州藩第5代藩主をつとめ、さらにそれ以前は越前国葛野藩主であった。
【略歴】
徳川御三家紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。
第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の流れの徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八木将軍)と呼ばれていた。
この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人となっている。
【倹約】
・自ら質素倹約に努め、着物は木綿に限定、食事は朝夕の2回のみとし、献立も「一汁三菜」とした。家臣が華美な服装をしていると、一切返答せず、じっとその服装に目を注いで暗に注意を促した。
・前例にならって華美な様式で行われる予定だった家継の葬儀の様式を、吉宗は全て改めた。用意されていた棺や装飾を破棄し、質素なものに作り替えさせた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
徳川吉宗(とくがわよしむね) (1684-1751) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
徳川中興の祖とされる8代将軍吉宗は、延享2年9月、満61歳で隠居し、長子家重にあとを譲っていわゆる大御所となった。
その1ヵ月あと、彼は名臣とうたわれた老中松平左近将監乗邑(しょうげんのりむら)を罷免した。それは家重が暗愚で、次男の宗武が英邁(えいまい)であることから、乗邑が宗武を次代将軍とすべく奔走したので、長子相続制という「神祖御定法(ごじょうほう)」を守ることこそ徳川家万代のためになると考えた吉宗の忌避(きひ)にふれたのであった。しかしその是非において、最後の、そして最大の煩悶事であったろう。事実家重の将軍襲職は失敗であった。
その翌年彼は重病を病んで半年ばかり寝こみ、これは一応平癒したが、5年後の宝暦元年5月ふたたび病床につき、6月20日に死亡した。

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