じじぃの「人の死にざま_479_坪内・逍」

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早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館
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坪内逍遥 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
坪内逍遥は主に明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳。俳句も詠んだ。
【概説】
尾張藩領だった、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)の生まれ。父は尾張藩士。太田代官所の手代をつとめていたが、のちに一家で実家のある名古屋へ戻った。母の影響を受け、幼くして読本・草双紙などの江戸文学や俳諧、和歌に親しむ。
洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、東京大学予備門(のちの第一高等学校)を経て、東京大学(のちの東京帝国大学)文学部政治科卒業、文学士(当時は文学士といっても理学に対する文学なので文学を専攻したわけではない)。東京専門学校(のちの早稲田大学)講師となり、のちに早大教授。
26歳で評論『小説神髄』を発表。江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著した。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された(『浮雲』第一編は営業上の理由で坪内雄蔵名義で刊行された)。
早稲田大学演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。
博物館の右手正面には、「講義中の逍遙」の銅像がある。その右手と握手をすると、早稲田大学に合格すると云う言い伝えがあり、 受験シーズンには、握手をするために受験生が列を作るほどである

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
坪内逍遥(つぼうちしょうよう) (1859-1935) 76歳で死亡 (一部抜粋しています)
逍遥が20年の歳月をかけて『シェイクスピア全集』40巻を完訳したのは、昭和3年、数え年で70歳のときであったが、昭和8年74歳の年からさらにこの全巻の修正改訳にとりかかった。
以後、熱海の別荘双柿舎で、時に大病を患(わずら)い、急速な肉体の衰えの中にこの仕事をすすめ、最終巻『オセロ』の改訳を終えたのは昭和10年1月半ばのことであったが、その直後彼は発熱、不眠、食欲不振のため病床についた。医者の診断は気管支カタルということであったが、実は彼はすでに肺浸潤に冒(おか)されていた。
2月10日、彼は『オセロ』校正の件について弟子たちに指示するところがあったが、その夜から高熱を発し、20日には足に浮腫を生じ、28日午前10時30分、昏睡状態のまま死去した。
しかし。−−
松本清張は『行者神髄』という作品で、小説の形をとりながら、逍遥は生涯躁と鬱の周辺を繰返したが、その鬱は逍遥が若い頃根津遊郭の遊女を妻としたことに根源を発したもので、公式の逍遥伝には、彼がその妻を生涯重んじ、またセン夫人もよくそれに応(こた)えてあっぱれな名夫人として通したとあるが、それは両人の仮面であって、逍遥はこれに因する悩みのためにこの年に至って鬱の極に達し、睡眠薬を多量服用して自殺したのではないか、という怖るべき疑惑を提出しているのだが。−−

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