じじぃの「人の死にざま_881_尾崎・士郎」

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第三部 人生劇場 動画 YouTube
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尾崎士郎 ウィキペディアWikipedia)より
尾崎士郎は、日本の小説家。
愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)生まれ。早稲田大学政治科を中退し、大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。1921年に時事新報の懸賞小説で『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てる様になる。1933年から都新聞に『人生劇場』を連載し、これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。その一方で戦前に「文芸日本」戦後に「風報」を主宰した。
また『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書き、相撲にも詳しく、相撲関係の著作もあり、長編『雷電』も書いている。酒豪で著名であった。大腸癌により亡くなったがなくなる直前に闘病記を遺した。文化功労者が追贈された。
人生劇場  ウィキペディアWikipedia)より
『人生劇場』は、愛知県吉良町(現・西尾市)出身の作家尾崎士郎の自伝的大河小説。吉良から上京、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。「青春篇」、「愛慾篇」、「残侠篇」、「風雲篇」、「離愁篇」、「夢幻篇」、「望郷篇」からなり、「残侠篇」は完全な創作で、他は自伝要素を混じえ創作されたという。晩年の昭和35年〜37年に、新潮社で「蕩子篇」、集英社で「新人生劇場 星河篇」、「狂瀾編」の3巻が出版された。
尾崎の生前に「望郷篇」までが、新潮文庫全11巻で出されていた。2008年に角川文庫で、「青春篇」のみ弘兼憲史表紙で新版が刊行。なお角川でも約半数が文庫化され、映画公開に合わせ新版を再刊していた。
この作品は、当初都新聞に新聞小説として連載され、当時の挿絵は、中川一政が担当し、1935年(昭和10年)に竹村書房で最初の単行本が出版された。
これを手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩五木寛之の自伝的な大河小説『青春の門』がある。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
尾崎士郎(おざきしろう) (1898-1964) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
『人生劇場』で知られる尾崎士郎は、昭和35年秋のころから食欲不振などの変調を自覚し、酒も欲しないようになっていたが、いままでの習慣通り、かつ「仮にも文壇酒徒番付の横綱という称号に対しては自ら面目をかがすようなことがあってはなるまい」と「意志と勇気をふるい立たせることによって飲みつづけた」
しかし、翌36年6月。「今までおさえにおさえていたのもが、とうとう最後的な限界をやぶって肉体の上にのしかかってきた」状態になり、ついに24日、慈恵会医大附属病院に入院し、7月15日、手術を受けた。
「その腫物を、私はついに見る機会はなかったが、それが横行結腸の閉塞部にあったガンだということをハッキリほかの医員の口から聞いたのは、それから45日経ってからである」と、彼は書いている。
かくしてガンを切除し、約60日の入院生活を経て退院した。
しかし、2年後の38年半ば、ガンは直腸に再発した。
「病人の父は、あらがいの姿勢をもう示さなかった。ある日背広を着て出かけたのが最後の外出になり、またある日何日ぶりかで入浴したのが最後の入浴になり、そしてまた、ある日からまったく仰臥のまま病室から出なくなった」
と、娘の一枝は記す。
「ガンの再発と診断された時、母はもう父を2度と入院させたがらなかった。白い壁に囲まれ息づまる病院の日課の中で父の生を終らせることは、母にはとても耐えられないと言った」
ある日、下着を取り替えさせるために、一枝は父のむき出しの下半身を見せられることになった。そして、頭の芯をはくっとたたかれるような衝撃を受けた。
「見るに忍びないというのは、こういうことを指すのだろうか。私は、皮ばかりが――それも皮とはとても思えない。紙の繊維のようによれよれの、茶色のものが――辛うじて形骸をとどめている骨にまつわりついているさまを見たとき、どうしても顔が上げられなかった」
昭和39年2月18日。朝から雪がふりつづいていた。虫この俵士は早稲田高等学校の入試に出かけた。その夕方から士郎の息づかいが苦しそうになって来た。そして、かかりの医者が来て、あと6時間くらいしかもつまいといった。
士郎は、雪を見たいからといって、庭向きの障子をあけさせ、聞きとれない声で妻にひっきりなしに何かしゃべりつづけ、一枝に何か歌を歌ってくれといった。一枝は父の好きな「青葉繁れる」を歌いはじめ、歌いつづけた。
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息をひきとったのは、2月19日の朝であった。そのとき息子は、父の愛用したラッパを、死にゆく父のために、遠くから懸命に吹きつづけていた。

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