尾崎一雄 - あのひと検索 SPYSEE
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尾崎一雄『暢気眼鏡』 新潮社
疑うことを知らぬ天真爛漫な若い新妻との貧乏暮しを爽やかな筆に綴った表題作ほか、ふくよかな心境小説の佳品を全10編収録。
http://www.shinchosha.co.jp/book/865183/
尾崎一雄 ウィキペディア(Wikipedia)より
尾崎一雄は、日本の作家。
【来歴・人物】
神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部国文科卒業。政治家河野一郎とは早稲田大学も含め同級生であった。
上林暁と並んで戦後期を代表する私小説(心境小説)の作家として知られる。その文章は、ユーモアと負けん気、理不尽への怒りを背景に、独特のリズムとさわやかな読後感が印象的。特に晩年の小説とも随筆とも判別しがたい自由闊達の作品は、その心境の深まりとあいまって、心境小説の典型を示している。
代表作は、『暢気眼鏡』『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』『虫も樹も』『あの日この日』など。最晩年に筑摩書房で『尾崎一雄全集』全15巻が刊行された。
1964年日本芸術院会員、1978年、文化勲章受章、文化功労者。1983年3月に自宅にて急逝した。遺稿は同月に亡くなった小林秀雄の追悼記だった。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
尾崎一雄(おざきかずお) (1899-1983) 84歳で死亡。 (一部抜粋しています)
作家が原稿のできない弁明にはいくたの口実があるが、尾崎一雄の「梅ボシのつけるのもやめてがんばってみたんだが……」といったのがいちばんリアルである。代々、小田原の農家に生まれた尾崎にとって、梅ボシをつけることは最も重大な行事であったからである。
尾崎は若いころ結核で死にかかったことがあり、43歳のときには胃潰瘍で医者から、あと3年生きられたらめっけものだといわれて、生存5ヵ年計画をたてた。あと5年以内に死ぬとして、すべての計画をたてるのである。そして、次から次へと5ヵ年計画を更新した。70歳になったとき「欠礼長命説」を唱え、お義理の冠婚葬祭はすべてごめんこうむることにした。80歳になったとき「2ヵ年計画」に切り換えた。
昭和56年、小田原の家を2階建てに建て換えたが、それは富士山を望遠鏡で眺めるためで、「80を過ぎておれもバカだ」といいながら、客にも見せてよろこんだ。
尾崎は死の前年に語った。
「僕は来世は信じない。だから、死ぬためには何もしない。すべては生きるためだ。自殺するやつだって、あれは自分の生のためなんだ」
・
翌年の3月、その1日に死んだ小林秀雄のために「文学界」に追悼文の原稿をかいたが、1ト月後の3月31日、それまで何の異常もなく、昼間孫といっしょにつくし採りに出かけたくらいであったのに、午後9時半ごろ夕食をとっていて、ふいに気分が悪いと訴えて床につき、妻に肩や背をもませ、妻が医者を呼ぼうとしたが「おそいから、あしたでいい」と、とめた。
その後いよいよようすがおかしくなったので、近くの医者の往診を求め、さらに救急車で病院に運ばれる途中、午後10時40分、死亡した。急性心不全。
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尾崎一雄 Google 検索
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