じじぃの「人の死にざま_1077_田岡・一雄」

田岡一雄 - あのひと検索 SPYSEE
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三代目山口組 田岡一雄組長 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0gu_rVce42Q
三代目山口組 田岡一雄組長 葬儀 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wQ9aRXD-8no
田岡一雄 ウィキペディアWikipedia)より
田岡一雄は、日本のヤクザ、実業家、芸能プロモーター。暴力団・三代目山口組組長。甲陽運輸社長、芸能事務所・神戸芸能社社長、日本プロレス協会副会長、神戸水上警察署一日署長。田岡満、田岡由伎の父(子は異母兄弟)。
【三代目組長襲名後】
・三代目襲名時の組員は三十数人だった。
・賭博のテラ銭は、競輪、競馬 及び競艇公営ギャンブルの隆盛によって、主要な収入源ではなくなり、別のしのぎを模索することになり、戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般に手を広げ、平行して神戸港の港湾荷役にも進出した。
・港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。
・港湾荷役では藤木幸太郎らと全国湾荷役振興協議会を設立した。
・芸能プロダクション神戸芸能社は、美空ひばり田端義夫などトップ・スターの興行を手がけた。
・1951年(昭和26年)1953年(昭和28年)山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、同年4月20日天王寺署に出頭、逮捕される。同年5月4日、処分保留で釈放され、不起訴処分となる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
田岡一雄(たおかかずお) (1913 - 1981) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
25のとき、組の事務所に殴りこみをかけてきたやくざを日本刀で斬殺し、懲役8年の刑を受け、出獄後の昭和21年、33という異例の若さで神戸の暴力団山口組の三代目組長となった田岡は、神戸港の荷役を一手に収め、ついで関西の芸能興業の支配者となり、歌手美空ひばりなどから「お父ちゃん」と呼ばれるまでになり、この間、暴力団のみならず政財界とのコネクションを作って、全国の暴力団を制覇し、マスコミからドン田岡と称される存在となった。
彼は昭和40年5月、いちど心筋梗塞を起こして危篤におちいったこともあり、53年7月京都のナイトクラブでやくざに狙撃され頸部貫通銃創の重傷を負ったこともあったが、いずれも回復して、その配下は無数の血なまぐさい暴力事件を起こして民衆を恐怖させながら、彼自身は組長となってからはいちども刑務所にはいることはなかった。
しかし、その不死身のドン田岡も、昭和56年7月上旬風邪をひき、それがひきがねとなって、7月8日、また軽い心臓発作を起こした。
長女の由伎によると、田岡は山口組のことを「こんなに大きくなるとは思わなかったなあ」といい、また「これでええんかいなあ、俺。こんなにうまいこといって、世の中、こんなに甘いもんかなあ。おかしいんちゃうかなあ?」といってた矢先に倒れた、という。
ただちに関西労災病院に入院しようとしたが特等席がふさがっていたので、神戸市灘区の自宅、通称「田岡御殿」に病院の医療器具すべてを運ばせ、医者を呼んで治療をつづけさせた。
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7月23日の朝、寝室で彼が絶息しているのを看病当番の組員が発見して、救急車で関西労災病院へ運び、13時間にわたり大量の薬物投与や激しい心臓マッサージをつづけた。午後2時25分、いちど心臓が停止したが、電気ショックでまた甦った。しかし午後7時31分、ついに完全に絶命した。
その幹部の一人はいう。「いや、オヤジは大往生やった。何しろ畳の上の大往生やから、幸せな最後やったろう」
田岡の死後、その相続をめぐって山口組は分裂し、血で血を争う抗争にはいった。

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