じじぃの「人の死にざま_408_伊藤・雄」

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伊藤雄之助 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
伊藤雄之助(いとうゆうのすけ、1919年8月3日-1980年3月11日)は、日本の俳優。
【来歴・人物】
1919年8月、東京市浅草区仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。
映画は1932年に『少年諸君』で映画デビューしているが、本格的な映画出演は戦後からで、義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社する。その後東宝争議が始まったために東宝を退社。新東宝、綜芸プロなどを経て、1954年よりフリーになり、『プーサン』『気違い部落』『ああ爆弾』などで主演をつとめる。特に社会風刺喜劇の『プーサン』は、監督の市川崑ともども出世作となった。また、早い段階でフリーとなったため、テレビドラマにも、1950年代から多くの作品へ積極的に出演した。特異な容貌と怪演による個性的なバイプレイヤーとして、時代劇、現代劇ともに出演作も多い。しかし、そのアクの強い演技から、好き嫌いがはっきりと分かれるタイプの役者である。
代表作に『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』など。『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示した。1968年6月に脳溢血で倒れ、半身不随となるも懸命なリハビリの結果、翌1969年には『橋のない川』にて俳優活動を再開した。晩年も『太陽を盗んだ男』で、バスジャックして皇居に突撃しようとする犯人役を演じるなど、多数の映画・ドラマなどに出演。最後の映画出演作は、1980年公開の『戒厳令の夜』である。
1980年3月5日、療養で伊東市の温泉へ行くが、翌3月6日になって容態が悪化、そのまま伊東市内の病院に入院。3月11日に心臓発作により永眠。
芝居に対する執念はすさまじく、また気骨ある言動で知られ、ゴテ雄のあだ名がつくほどであった。1968年には幼少期から受けた冷遇などを元に、映画界の因習について厳しく批判したエッセイ『大根役者・初代文句いうの助』を執筆したために映画界から干されるなど、苦労の多い役者人生だった。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
3月11日−伊藤雄之助 (俳優・60歳)
麦わら帽子と長靴とが実に似合う、独特の味を有した性格俳優だった。
見るからに野暮ったい田舎のおっさん役の伊藤だが、その血筋は歌舞伎の女形として名を馳せた沢村宗之助(初代)を父に持ち、母もまた帝劇の女優だった鈴木徳子という。
初舞台を踏んだ5歳の時に父を失い、14歳にして母に逝かれたという伊藤。このために3万円の借金が残され、それを返済するために役者になったという動機にには哀しくもまた、おかしさがある。
長い下積にだった。自他共に認める不器用さが災いしたようだが、1946年に発表された『命あるかぎり』で性格俳優としての存在を示した。それからの伊藤は邦画史に名を残す脇役の一人として数えられていることは言うまでもないだろう。

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