じじぃの「人の死にざま_562_山本・嘉次郎」

山本嘉次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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加藤隼戦闘隊 -Kato Hayabusa Fighter Wing- 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w
めんこい仔馬 二葉あき子・高橋祐子・児童合唱団 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FRo-98MOrTE
山本嘉次郎 ウィキペディアWikipedia)より
山本嘉次郎は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用する事も多かった。
【略歴】
東京都銀座采女町に生まれる。実家は飲食店で親子丼を発明し売り出した。慶應義塾大学卒業後の1920年に『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビューする。しかし、それが原因で親から勘当され、その手切金で「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。
1938年、高峰秀子主演で『綴方教室』を監督、1941年には黒澤明を助監督に『馬』を制作した。この2作品は従来扱われていなかった世界を扱った佳作として高い評価を受けた。
第二次世界大戦中の1942年、円谷英二特技監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』を東宝映画で制作する。
1944年には陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』を東宝で制作・公開。藤田進を主演(加藤建夫戦隊長役)に、特技監督は前作と同じく円谷英二を迎え、一式戦闘機「隼」をはじめとする実物機や陸軍落下傘部隊を多数動員するなど陸軍全面協力のもと撮影が行われ、本作は同年の興行収入のトップを記録した。
その後、1951年に高千穂ひづるのデビュー作『ホープさん』、翌々年1953年には、東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』を作り、健在をアピールした。
晩年は、監督作品には恵まれなかったが、脚本を多数執筆。「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
山本嘉次郎(やまもとかじろう) (1902-1974) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
おびただしい東宝喜劇映画を作る一方、「馬」「ハワイ・マレー沖海戦」など道標的名作を残し、黒沢明高峰秀子エノケンなどを育て上げ、カツドウヤと自称した映画監督山本嘉次郎は、戦後はこれといった作品を作っていない。
しかし、生活を愛し、スコッチウイスキーを好み、親子丼の発明者は自分のおやじだと唱え、
「ボクは親子どんぶりを食ってから死にたい。それも、そば屋から出前されたようないい加減なものではなく、自らの手で精魂を傾けて仕上げたものでなくてはならぬ」
と、昭和48年「文藝春秋」の11月号に書いたほどであった。
それには、20、30年前の東京湾で採れたものと同じ海苔(のり)、秋田の比内鶏(ひないどり)、絶滅した上山の酸川米(すかわまい)、上州沼田産の大豆で作った醤油等を必要とし、
「すべて根本からやり直さなければならない。これを考えると、まだまだ20年や30年は死ねない」
といった。
しかし、それから半年たつやたたずの昭和49年6月はじめから脳軟化症を起し、ついで肝硬変がそれに重なった。
・・・・外見では生活を愛し、食道楽を楽しむ趣味人と見え、しかし「仕事」のない山本嘉次郎の晩年の実態は、むろんそんなにエレガントなものではなかった。世田谷区会議員となって彼を養った千枝子夫人は記す。
「仕事の方向を失い、常軌を逸した行動に走り出した晩年の夫の姿が目に浮かびます。独特の調子で痛烈な皮肉をあびせかける夫。体をこわすとわかっている劇薬同様のウイスキーをあおって、酔いで自分の良心を殺そうとする小心の夫。いっそのこと、私の手で夫の生命を断ち、自分も死のうと何度考えたことでしょう。
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 なぜ、そんなに死に急ぐのですか。そう思っても私はそれを口にすることはできませんでした。夫一流のダンディズムがわかっていたからです。敗残の老監督は、夫のいちばんいやがる姿だったのです。
 三鷹杏林大学に入院した夫は、1ヵ月間というもの、ほとんど食事に箸をつけませんでした。何を出しても食欲というものを見せませんでした。医師もついにサジを投げて退院することになりました。帰宅して、まっさきにいったのは『酒』のひとことでした。こうして夫は終幕に向かって突っ走ったのです。−−」(山本千枝子『カツドウヤ女房奮闘記』)
9月21日の昼ごろ、しきりにオスシーとつぶやくのを、やっとウイスキーだと聴きわけ、夫人がスコッチを脱脂綿にひたして口にあてがってやると、うまそうにチューチューとそれを吸った。
午前7時55分、眠るように息をひきとった。親子丼とはいかなかったが、からくも食通の最後の面目は果たした。

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