じじぃの「帝都復興院・後藤新平!スパモニ情報局」

TOKYO MEGA QUAKE 1923 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4MSLTAPlFWY&feature=related
関東大震災の惨状.wmv 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WzkV1FlByy4
嗚呼 平成の後藤新平 高橋是清は何処に! 11/03/19 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WyoQ6OrwGX8
後藤新平 画像
http://www.ndl.go.jp/portrait/1024_1536/427-53/001/0036_l.jpg
88年前の復興院、後藤新平が主導 問われるトップの力量 2011.3.28 MSN産経ニュース
東日本大震災からの復興に向け与野党で「復興庁」や「復興院」を創設する構想が浮上している。モデルは88年前の関東大震災で復興計画を立案した「帝都復興院」。総裁は後藤新平(1857〜1929)だ。ただ復興院が機能したのは、組織もさることながら、力量ある後藤という政治家の存在があったからのようだ。
大正12(1923)年9月1日昼の関東大震災で東京には焼け野原が広がった。死者・行方不明者は10万5000人以上。震災被害も収まらない2日夜に山本権兵衛内閣が発足し、救援と復興の責任者となったのが内務相の後藤だ。
 教訓に富むのは、後藤がすぐに明確な方針を打ち出したことだ。内相就任の2日夜、帰宅した後藤はただちに机に向かって復興根本策を書き上げた。そこには「遷都はしない」「復興費は30億円」の項目とともに東京の改造が宣言されていた。
区画整理を伴う新都市計画実施のため地主に断固たる態度をとる」。復興のためには決断が重要という後藤の考えがみえる。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110328/plc11032823000022-n1.htm
その時歴史が動いた後藤新平・帝都復興の時〜 2008年6月 NHK
関東大震災後の復興計画を主導し、現在の東京の原形を形作った政治家・後藤新平。「人を衛る」ことに全てを捧げ、社会の医者と呼ばれた後藤新平の情熱と信念を描く。
関東大震災後の復興プランを手がけ、現在の東京の原形をデザインした政治家・後藤新平。もともと医者だった後藤は、社会を生物の体にみたて、「人と人とのつながりがうまく機能することで世の中が発展する」という独特の思想を抱いていた。後藤のこの考えは、関東大震災後、帝都復興院総裁として東京の復興を任された際、「区画整理」という新たな都市計画プランを生み出す。“社会の医者”とよばれた後藤新平の情熱と信念を描く。http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090806050030136/
スーパーモーニング 2011年3月31日 テレビ朝日
【キャスター】小木逸平赤江珠緒 【コメンテーター】鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、三反園訓(解説委員)、東ちづる(女優)、やくみつる(漫画家)
▽スパモニ情報局・帝都復興院

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どうでもいい、じじぃの日記。
3/31、ぼけっと、テレビ朝日スーパーモーニング』の番組で「スパモニ情報局・帝都復興院」を観た。
こんなことを言っていた。
大震災から20日目。復興に向けて今。
三陸鉄道が再開されて、電車が運転されている映像が流れる。
一部の区間ですが、運転を再開した三陸鉄道。さらに気仙沼と大島を結ぶ定期船も運航を再開。三陸自動車道も昨日から一般車両が通行可能になるなど、被災地では復旧作業が続いています。
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「復興事業を統括する組織」の必要性がにわかに叫ばれています。その構想の原点となったのは88年前のあの出来事です。
1923年、関東大地震で東京が火事で焦土化している映像が出てきた。
小木さん、「みんな、口ぐちに言っています。"復興庁"とか"復興院"とか。その原点は88年前、1923年(大正12年)に起きた関東大地震のとき、"復興院"がすぐ作られました」
帝都復興院 ・・・ 災害に強い町を基本に近代的な町づくりを計画した東京復興計画
小木さん、「帝都復興院は実際何を行ったのかというと、関東大震災地震そのものも大きかったのですが、その後の火災なんです。死者約5万8000人、うち約87%が焼死だったんです。ということは復興院は火災に強い町づくりをしなければいけない。どうやって町づくりを進めるのか」
改善のポイント
①木造建築 ・・・ 鉄筋コンクリートのアパート(同潤会アパート
②避難場所 ・・・ 大規模な避難公園(墨田公園、山下公園など)
③道路    ・・・ 幹線道路を整備(日比谷通り、永代通り昭和通りなど)
小木さん、「実は我々が普通で見ていたものが、この時に復興しようと都市計画を作って作られたものなんです。この復興計画を進めたキーパーソンがいて、その人が当時内務大臣だった後藤新平なんです。この人の言葉にその意欲が表れています」
「復旧ではない、復興だ」
鳥越さん、「災害に強い、地震に強い、津波に強い、そういう町づくりと同時に新しい21世紀の町づくりをやってほしいんですけど、いろんな利害関係がある。それをやるにはリーダーシップが必要なので、それなりに政治家からか、民間からか、ちゃんとした人物を当てないと。なかなか難しいですね」
小木さん、「この後藤内務大臣、震災の翌日に町づくりの基本案を作ったんだそうです」
東京復興の基本方針
①遷都を否定する
②復興予算は30億円
③欧米の都市計画を適用
④○○に断固たる態度をとる
小木さん、「復興予算は30億円。これは国家予算の倍だったそうです。今で言うと180兆円ぐらいです。しかし実際には10分の1になったそうですが。『○○に断固たる態度をとる』、何でしょう。これが『地主に断固たる態度をとる』ということだったそうです。そもそも当初の計画では被災地全体の買収を計画したのだそうです。結果的には地主に対し、1割の土地の無償提供を求めた。そして区画整理を大胆に行っていったんです。それを成し遂げるための人ですよね。後藤新平だけでなくて高橋是清渋沢栄一といった人が帝都復興審議会に名を連ねていたんです」
三反園さん、「後藤新平と同じくらいのリーダーシップがあって、見識があって、存在感のある人が今いるかということですね。今作っても、なかなか進まないんじゃないかと思います」
じじぃの感想
後藤新平だけでなくて高橋是清渋沢栄一といった人が帝都復興審議会に名を連ねていたんです」
明治、大正とすごい人達がいたもんだ。