じじぃの「人の死にざま_561_菊田・一」

菊田一夫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%8F%8A%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%A4%AB/15540/
君の名は 織井茂子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HSTxM4XoDbo&feature=related
古関裕而ほか とんがり帽子(鐘の鳴る丘) 1978 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=j36fMVc4KvE
菊田一夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
菊田一夫は、神奈川県横浜市生まれの劇作家・作詞家。本名は菊田数男。
【生涯】
生まれてすぐ養子に出され、生後4ヵ月で両親(西郷姓)に連れられて台湾に渡ったが、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめた。その後大阪・神戸で小僧をして夜学(実業学校)に学ぶ。
1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、萩原朔太郎サトウ・ハチロー林芙美子小野十三郎らと出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る。そののち、1933年(昭和8年)に古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられ、芝居作者の道に入った。
戦後間もなく、作曲家の古関裕而と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルの音楽を手がけ、多くのヒット作品を世に送り出した。特にミュージカルにおいての2人のコンビは、戦後の日本ミュージカルの草分けと言われている。 この2人の代表作は、ラジオドラマ・映画だと「鐘の鳴る丘」、「君の名は」シリーズ、「あの橋の畔で」シリーズなど。舞台は「敦煌」、「暖簾」、「がしんたれ」、「放浪記 (戯曲)」、「風と共に去りぬ」など。楽曲は「イヨマンテの夜」、「雨のオランダ坂」、「フランチェスカの鐘」など、多岐にわたる。
1955年(昭和30年)、東宝の取締役に就任。東宝演劇部の総帥としての仕事のかたわら、映画や帝劇・宝塚などの舞台の原作・脚本・演出をはじめ、小説の執筆にも精力的な活躍を続け、数々の名作を世に送り出した。 ミュージカル「マイ・フェア―・レディ」の上演権を獲得し、日本で初めてブロードウエーミュージカルを舞台に上げた。
1973年(昭和48年)4月、数年患っていた糖尿病に脳卒中を併発し、死去。

                                      • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
菊田一夫(きくたかずお) (1908-1973) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「鐘の鳴る丘」「君の名は」「がめつい奴」などのラジオドラマや芝居で全日本を風靡(ふうび)する一方、東宝の演劇担当重役として東宝系の演劇に君臨した菊田は、そんな地位にあり、超人的な多忙の中に生活しながらきわめて少食で、食物には無関心で、いっとき栄養失調で倒れたことさえあった。それなのに彼は糖尿病にかかった。糖尿病の持病があるにもかかわらず、そのくせ彼は、自分の手がける芝居の女優を次から次へ妻にしたり恋人にしたりする華やかな女性遍歴の一生を持った。
だれかを愛すると、いま君をおいて愛する女はこの世に1人もいないと真剣にいい、しばらくすると次の女性に、また同じセリフを真剣にささやくのであった。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却をちかうこころの哀しさよ」という彼の名文句? は、こういう体験から生まれたのかも知れぬ。
昭和48年1月2日、菊田は芸術座で彼の最後の作品となった「女橋」を観ていて、3幕目に気分の不快を訴えて芝白金の白金マンションに帰り、5日、慶応病院に入院した。彼の糖尿病はついに腎臓と心臓に障害をきたしたのである。
そして、静養中、4月2日午後零時40分、突然脳溢血を起して意識不明におちいった。
菊田はかって「おれは死ぬとき、女のバカヤローとどなって死ぬんだ」といっていた。彼が悩まし、彼が悩まされた歴代の「伴侶」たちはみな病院の廊下につめかけていたが、臨終の部屋にはいることを許された女優は、そういう因縁のなかった宮城まり子ただ1人であった。まり子は記す。
「・・・・そこには、いつもの先生ではない、サンソ吸入のクダを鼻から入れ、コンスイ状態の先生がいられました。
 のども、胸をあけひろげられているのに少しもうごかず、ただお医者様が心音を、看護婦さんが脈をとって、いられるだけでした。しばらくして看護婦さんが手をはなし、そしてまたお医者様が手をはなし、聴診器をポケットにしまい『お気の毒です』とおっしゃいました。はじかれたように、お嬢さんが先生を抱くように『パパァ、パパァ』と泣き出され、奥さまが『さんざん苦労ばっかりして』と、すがりついて泣き出されました。
 別の看護婦さんが、入って来て、無ぞうさに足もとをめくり、足の血管に入れていたテンテキの針を抜かれました。少しむき出しになった先生の足は、子供のようでありました。先生の足もとに立っていた私は、そのあまり小さな足が悲しくて、こらえていた涙が、どうしようもなくなりました」
彼が息をひきとったのは4月4午後9時で、外は冷たい菜(な)たね梅雨(づゆ)がふりしきっている夜であった。
      ・
例の「忘却」の詩は、東京西郊上川霊園にある彼の墓地に刻まれている。なるほど墓碑銘としてもふさわしい。

                                      • -

菊田一夫 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=OdWTTbWwAoHCvQOj4fmHDA&ved=0CBwQsAQ&q=%E8%8F%8A%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%A4%AB%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1