じじぃの「人の死にざま_994_山本・宣治」

山本宣治 - あのひと検索 SPYSEE
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あらすじ 解説 「武器なき斗い」 goo 映画
西口克己の「山宣」の映画化で、治安維持法に反対して兇刃に倒れた山宣の生涯を描いたもの。依田義賢と山形雄策が共同で脚色し、「人間の壁」のコンビ山本薩夫が監督し、前田実が撮影した。総評が中心になって「山宣」映画化実行委員会が誕生、勤労者らのカンパで作られた。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19769/story.html
山本宣治 ウィキペディアWikipedia)より
山本宣治は、戦前の政治家、生物学者京都府出身。
山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。
【経歴】
1889年、京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松を父、多年を母とした長男として生まれた。
1928年の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に京都2区から立候補し、2041票で当選した。労農党からは水谷長三郎と2人の当選だが、山本は共産党推薦(当時は非合法のため非公式)候補であり、反共主義者の水谷とは一線を画した。また、治安維持法改正に反対した。1929年3月5日、衆議院で反対討論を行う予定だったが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。死後、日本共産党員に加えられた。なお、母の多年も戦後共産党に入党している。
碑文は塗り潰されては何者かに剥がされる繰り返しだった。敗戦後の1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭でセメントが取り外され、名実共に復旧した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
山本宣治(やまもとせんじ) (1889-1929) 40歳で死亡。 (一部抜粋しています)
大料亭を経営する豊かな実家を持ち、東大理学部を卒業しながら、大正時代から社会正義に燃えた山本宣治は、先駆者として、産児制限性教育の啓蒙、部落解放、労働組合の結成、治安維持法改正(実は改悪)反対などの運動を熱情的に進め、昭和3年2月の普選による第1回総選挙に、日本ではじめての無産政党からの8人の当選者の一人となった。
昭和4年3月5日、前日に死んだ新国劇沢田正二郎の華やかな市民葬の記事を新聞で見て、議会で山本は、「僕たちが死んでも、せいぜい5、6行だろうな」と、苦笑した。傍人が、「あなただって誰かに殺されたら大きく出ますさ」というと、「そんなもんかねえ。じゃ、ひとつ殺されてみるか」と、冗談をいった。
その夜、彼は、東京市会議員に立候補している同志の応援演説をすませたあと、宿としている神田神保町の光栄館という旅館に帰った。入浴して、9時半ごろ、夕食にとりかかろうとしていると、白ジャケツに久留米がすり、鳥打帽の30半ばの男が訪れて、労働組合の者だといい、執拗に面会を求めたので、女中にいちど断らせた山本も、やむなく部屋に通した。
男は、実は自分は組合員ではなく、右翼団体七生義団の黒田保久二という者だと名乗り、ふところから「自決勧告書」を出してつきつけた。それは、赤化、不敬などの山本の罪状をならべたもので、二人の間に口論が起こった。そして男は、いきなり刃渡り20センチの短刀をとり出して、山本の右頸部を突き刺した。
そのまま逃げる犯人を山本は追ったが、階段の上でまた胸を刺され、二人はもつれあいながら階段を転がり落ちるように駈け下りたが。山本はそこで力尽きて玄関の間に倒れ、10時40分に絶命した。
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4月30日、予審が終結するとともに、30円の保釈金で犯人は釈放された。殺された山本は国賊と見なされ、殺した黒田某は愛国者と見なされたのである。

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