じじぃの「人の生きざま_62_原・節子」

日本映画界の伝説的女優 原節子さん死去 2015年11月25日 NHKニュース
映画「東京物語」や「晩春」など、小津安二郎監督作品に欠かせない女優として活躍したものの、昭和30年代に突然引退して日本映画界の伝説的な存在と言われた元女優の原節子さんが、9月5日に神奈川県内の病院で肺炎のため亡くなっていたことが分かりました。95歳でした。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151125/k10010319561000.html
原節子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%8E%9F%E7%AF%80%E5%AD%90/1909/
【日本を代表する】原節子を海外の有名映画人たちが絶賛【伝説】 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jJ4rrpXDF10
青い山脈 (1949) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bAKmKJxtWZg
小津安二郎 『東京物語』 予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=LjDWc-lQYnM&feature=related
解説 - 山の音 goo 映画
川端康成の原作を、「にごりえ」の水木洋子が脚色、「あにいもうと(1953)」の成瀬巳喜男が監督した。「愛人」の玉井正夫の撮影、「恋文(1953)」の斎藤一郎の音楽である。主な主演者は、「にごりえ」の山村聡丹阿弥谷津子長岡輝子、「東京物語」の原節子、「にっぽん製」の上原謙、「家族あわせ」の角梨枝子、「純情社員」の杉葉子、「恋文(1953)(1953)」の中北千枝子など。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7931/story.html
【書評】貴田庄『原節子 あるがままに生きて』(朝日文庫、2010): 批評職人〜たのしい文芸評論〜
http://mantenbook.seesaa.net/article/160659386.html
原節子 ウィキペディアWikipedia)より
原節子(はらせつこ、本名:会田昌江/あいだまさえ、1920年6月17日 - )は、日本の女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて名だたる巨匠たちの作品に出演。戦後の日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』(1946年、黒澤明監督)、『青い山脈』(今井正監督、1949年)、『めし』成瀬巳喜男監督、1951年)、『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)などがある。
1963年、小津安二郎の死と時期を合わせるように、公然の場から完全に姿を消したが、2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」で原が女優部門の第1位にノミネートされていることからもわかるように、現代においても「伝説の女優」としての評価を保ち続けている。
【経歴】
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父藤之助、母ナミの間に生まれる。
戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。(このことから、原が同時代の人々にとって「戦後の空気」にピタリと合う女優であったことがうかがえる。)さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝は戦後の混乱期にあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、やがてフリーの女優として独立する。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。
同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。(原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎渡辺邦男今井正が続く。)小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。小津は昭和26年に「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている。」と絶賛している。 
1949年(昭和24年)は原にとって記念すべき年となった。『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞したのである。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる。(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品。)原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇にあう。小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる。
1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが彼女にとって最後の出演作品となった。1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で死去。その通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとされる。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。
これまで一度もビデオ化、DVD化されたことがない『生命の冠』(1936年)が、2011年(平成23年)2月18日発売の『新潮45』の付録DVDに収録された。
朝日新聞は文化面で「はじめての原節子」を特集した。その中で原と共演したことがある司葉子は原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」と述べた。
現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活なども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。

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Newsweek日本版』 5・18号 2011年
「世界が尊敬する日本人 25人」 原節子(女優) 人間の価値を静かに伝える聖女
映画好きの欧米人でも原節子(90)と訊いてピンとくる人は少ないはず。しかし顔を見れば、ああ彼女かと思うだろう。
とりわけ小津安二郎の傑作『東京物語』(53年)の彼女だ。老いた義理の両親に親身に接する戦争未亡人役の原は、穏やかな聖女の雰囲気を漂わせていた。
昨年は英国映画会社が全作品を回顧上映するなど、小津の評価は高まる一方。それとともに原も今や伝説的な存在になっている。外国では、約50年前の引退時より間違いなく有名だ。
原はほかの有名監督との仕事でも、見事な演技力を証明している。黒澤明の『白痴』では、小津作品には見られない深い絶望を表現。成瀬巳喜男の『山の音』では虐待され、妊娠中絶を選ぶ妻という衝撃的な役だった。
小津と組んだ最後から2作目の『秋日和』では夫の死後も貞節を守り、娘のために自分の幸せを犠牲にする母親を演じた、その姿は、急速に近代化する日本社会で失われつつある伝統的価値を体現していた。
出演した6本の小津作品なしに原は語れない。彼女は群像劇の精神的柱として知恵や円熟、美、上品さ、そして作品が呼び覚ます人間の価値をそっと、輝くように見せてくれた。

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原節子 Google 検索
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