じじぃの「人の生きざま_73_山田・洋次」

山田洋次 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B4%8B%E6%AC%A1/3288/
男はつらいよ 私見ベスト3 寅さんお馴染み、口上! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zbb0v_zmpLo&feature=related
山田洋次桃井かおり、『幸福の黄色いハンカチ』の思い出話に花が咲く 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dRqJzyIpr6k
山田洋次監督、吉永小百合さんと抱擁 ♪♪ /映画「おとうと」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9HSE9WPQOac&feature=related
上越線C61 20+旧型客車試運転・水上駅で展示会 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-v3hbQAHuk4&feature=related
NHKスペシャル|復活 〜山田洋次・SLを撮る〜 2011年7月16日
代表作「男はつらいよ」から藤沢周平の時代劇まで、常に日本の良き時代、良き日本人の姿や魂を描き続けてきた映画監督、山田洋次さんが、あしかけ3年間にわたってSL「C6120」の修復・復活を映像で記録した、山田監督の初テレビドキュメンタリー。山田さんは少年時代、満鉄のSL技術者だった父にその素晴らしさを教えられ、以来、その魅力のとりことなってきた。
2009年12月、伊勢崎市華蔵公園に静態保存されていた巨大なC6120 が、JRの大宮工場に運びこまれ、営業運転に向けて再び命を吹き込むという一大事業が始まる。SLの修復は今日でも職人の勘や人間同士の阿吽の呼吸が勝負。一旦バラバラにされた2万個もの部品が一つずつ丹念に積み上げられ、人の手によって息を吹き返していく。そして修復作業のスタッフには、ベテラン職人から若いゲーム世代まで、様々な世代が入り混じる。山田さんは、現場の人々に語りかけてその声に耳を傾け、現代に生きる日本人の肖像までをあぶりだしていく。
戦後は日本の復興の象徴であった「SL」。死に体だったSL復活のドラマと、それを取り巻く人々の奮闘、そして強い思いを描くことで、東日本大震災で打撃を受け、将来への不安を抱えている現代日本人と日本社会へ向け、力強い復活へのエールを届けたいという、山田洋次さんの思いがこめられた番組である。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110716.html
山田洋次 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山田洋次(1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家。日本芸術院会員。川島雄三野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズなどの人情劇を発表する。評論家や文化人の支持も高く、現役でもっとも多くキネマ旬報ベストテンに入賞した監督である。中国などでも、日本映画界の第一人者として知られる。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科と立命館大学映像学部の客員教授文化学院の特別講師でもある。
妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日-2008年11月8日)。次女はBS-TBSプロデューサーの山田亜樹。
【来歴】
・1931年、大阪府豊中市生まれ。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している。
・1947年、大連から引き揚げ、旧制宇部中学校(山口県宇部高等学校)3年に編入する。翌年、旧制山口高等学校(現在の山口大学)に入学するが、在学中に学制改革を経験する(「私の履歴書 山田洋次⑧⑪」『日本経済新聞』1996年10月8、11日付による)。その後東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業して松竹に補欠入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした。
・1969年、『男はつらいよ』を発表。当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。最終の第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。渥美は公私混同を嫌っていたため、渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。知るようになったのは寅さんとのお別れ会の後である。渥美の死去によって『男はつらいよ』シリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。
・2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。
・2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。初の舞台演出。
・2010年、JR東日本が動態復元する蒸気機関車C61 20の復元工事の作業をドキュメンタリー映像として記録開始。父が鉄道ファンであった影響から幼少時より山田自身も鉄道ファンとなり、2011年6月4日の復活運転開始までの間、収録を行った。復活運転開始の日には、高崎駅で開催された復活記念セレモニーのスペシャルゲストとして招かれ、「東北で活躍したC61が復活したことには、大きな意義がある」などといったメッセージを送り、東日本大震災からの日本復興に向かう象徴の一つとするC61 20の復活を祝った。なおこの作品は、同2011年7月16日にNHKスペシャル『復活 〜山田洋次・SLを撮る〜』と題してテレビ放送された。

                                        • -

『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
山田洋次(映画監督) "変わってほしくない大切なもの"を描き続けている映画監督 (一部抜粋しています)
この人が映画を撮らなくなったら日本映画は終わる。と、私は思っている。撮影所が持つ本当の意味を肌で知っている最後の世代の日本映画人だからだ。
「黒澤(明)さんが言ったけれど、撮影所というのは建物じゃなくて、そこで働いているスタッフなんだ。かっては1000人ぐらいいたわけですから。松竹、東宝大映東映、新東宝、日活の各撮影所に。様々なパート(役割)の、映画を愛し、一生映画の仕事で食っていくんだという人たちが」
今流に言えば、撮影所というのは単なるハードではなくソフトだったのだ。監督や俳優はもちろん、脚本、カメラ、美術、照明、衣装、結髪、記録・・・・みんなが映画の"プロ"であり、胸を張って「○○組です」と名乗った。だが私はその現場を知らない。撮影所が大事なソフトだった頃、私は片田舎の子供だった。家の隣が映画館で、もぎりのおばさんや看板描きのおじさんと仲良しなのをいいことに木戸銭も払わず客席にもぐりこみ、三木のり平の『孫悟空』や外国映画の『へび男』なんかを夢中で観ていた。
      ・
山田作品に『同胞(はらから)』(昭和50年)がある。岩手県の農村の若者たちが様々な困難を乗り越えて移動劇団の公演を実現させる物語だ。上演の日、青年会の会長(寺尾聰)が客席の村人たちに向かって挨拶する。最初はヘドモドして失笑を買うが、思い切ったように言うのだ。
<俺たちの村はとっても広い村です。今では交通機関が発達して、誰でも買い物っていえば盛岡まで行くし、出稼ぎで東京や大阪に行ったり、団体旅行で北海道や九州にしょっちゅう出かけたりします。しかし肝心の自分たちが育った村のことをあんまりよく知らねえんでねえかな>
私には「俺たちの村」が「日本」に思えた。
今の最大の不幸は、日本映画を生むべき国そのものが病んでいるということだ。映画は、いやでもその時代の空気とその時代に生きる人間の心根を映す。映画人が努力する前に、まずこの国が、汗して働くことを尊ばない限り、先人の遺産に敬意を払わない限り、利便性だけを追い求める限り、そして日本人が金で魂を売り続ける限り、日本映画の復興はない。
「日本人全体が幸せになれれば、構わないんですよ。映画はどうなったってね」
山田監督のこの言葉に、全てがある。
6年前、監督にインタビューした時、私が軽率にも「もう何をしても日本映画はダメだと思います」と言うと、監督は静かに言った。
「絶望するのは簡単ですよ。難しいのは、何とかするんだという意志を持つこと。意志の力で希望を持つしかないと思います」
時代が変わっても国に有様は変わっても、人間にとって大切なものは変わらないはずだ。山田洋次という人は、その"変ってほしくない大切なもの"を描き続けている映画監督だ。
      ・
山田作品の根底には、以前聞いたこの話があると、私は思う。
満州にいた小学校3年生ぐらいの時、うちに『ふみさん』というお手伝いさんがいました。ある時ふみさんと2人で劇場に行って『路傍の石』(昭和13年田坂具隆監督)を観てたら、彼女が隣でボロボロ泣くんですよ。僕は喜劇をゲラゲラ笑って観るのが好きな少年でしたが、ふみさんはそんな風に客観的に映画を楽しむのではなく、もう映画を抱きかかえるように、主人公と一体になってというのかな。そういう観方が映画にはあるんだってことを彼女は教えてくれたんです。ふみさんは九州の五島から出てきた色の白い可愛らしい娘さんでした。うちはふみさんに部屋を与える余裕がなくて、彼女は僕たちが茶の間でご飯を食べた後を片付けて寝ていました。男の子としては18か19の乙女が襖(ふすま)1枚隔てて寝ていることに秘密めいた、艶かしさみたいなものを感じてたんじゃないかな。だからふみさんの涙はとてもショックだった。そして、1人の乙女としての彼女の生い立ちに初めて関心を持って、家族と離れて寂しいんだろうなとか、辛い思いをしてるんだろうとか考えるようになったんですね」
人間にとって大切なもの――。
<鰻なんてもんはな、われわれ額に汗して働いてる人間たちが、月に一度かふたつ月に一度、なんかこうおめでたいことでもあった時に、「さぁ、今日はひとつ鰻でも食べようか」つって、大騒ぎして食うもんなんだ。お前さんみたいに1日中何もしないでゴロゴロしている人間が鰻なんか食ったらバチがあたるぞ> 〜おいちゃん「寅次郎夕焼け小焼け」
<堅気の人はね、日曜日以外は昼頃まで寝てやしないよ> 〜おばちゃん「寅次郎頑張れ」
男はつらいよ』が時として過小評価される時、私はいつも寅さんお台詞を言ってやりたくなる。「勝負するのか、勝負を!」。このシリーズの中に描かれている人の暮らし、振る舞い、風景。一見何でもない日常の中に、これほど日本人の美徳がされげなくちりばめられた作品があるだろうか。
      ・
前から山田監督に聞きたいことがあった。
――私は失礼なほど他人に厳しい人間で、滅多な女優さんを上手いと思わないんですが、不思議なことに『男はつらいよ』のマドンナになると、普段私がちっとも上手いと思わない女優さんでも、別人じゃないかと思うほどいい演技をするんです。どんな魔法をかけるんですか?
「松竹映画は昔から女優が主役でしたから、その伝統を引いているんじゃないかな。女優はデリケートな存在だからガラス細工のように大事に扱えという教えがあるんですよ、松竹の撮影所には、まずスタッフ全員がその女優さんを、温かく見るというか、あるいは愛情を持つというか、それが一番大事なんじゃないでしょうか。愛情を基ば上手になっていくんです、自然にね。高羽(哲夫)さんという僕のカメラマンが、いつか新聞記者に『マドンナを綺麗に撮る秘訣は何ですか?』と聞かれて、困ったような顔をして『僕が綺麗だなと思うことでしょうね』と言っていたけど、その通りなんです。スタッフが女優さんの悪口を言うような現場は絶対、僕は許せないんですね。もしその人をあまり好きでなくても、好きになる努力をしろと、僕はよく言っていました」
監督の言う"愛情"とは、人間への深い理解力ではないだろうか。だからこそ女優だけでなく出演者の全てが、役柄の人物と一体になり、観る者のっ頃を動かすのではないか。そして監督と役者が究極の理解を叶えた時、あうんのコンビが生まれる。溝口健二田中絹代がいたように、小津安二郎原節子がいたように、成瀬巳喜男高峰秀子がいたように、黒澤明三船敏郎がいたように、山田洋次には、渥美清がいた。
――私は渥美さんにお目にかかる機会はありませんでしたが、たぶんとても品のいい方だったんだろうなと。
「そうです。おっしゃる通りです。あの人は下町で育って、浅草のストリップ劇場で艶笑コントをやってた人なんです。猥褻(わいせつ)な台詞なんか言ったりしてね。それなのにとても品のいい人でした。最後の48作目を撮った時、渥美さんはもうずいぶん体調が悪かったんですが、ロケ先で僕がちょっと気分が悪くなって宿で寝ていたら、見舞いに来てくれて、本当に心情を込めて『身体を大事にして下さいね。あなたはもっともっといい仕事をしなきゃいけない人ですよ、私と違って』。そう言って去っていきました。僕は、僕の映画全部に"渥美清に捧げる"と、オマージュを書いてもいいぐらいに思っています。つまり渥美さんこそ、最後の日本人だなと思うんです」

                                        • -

山田洋次 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B4%8B%E6%AC%A1&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnsol&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=TIAiTqaLI6HcmAWo2PCdAw&ved=0CEMQsAQ&biw=983&bih=554