じじぃの「人の死にざま_668_田中・絹」

田中絹代 - あのひと検索 SPYSEE
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田中絹代】 高石かつ枝の身の上話 【愛染かつら】 動画 YouTube
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Ballad of Narayama Trailer 動画 YouTube
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田中絹代 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
田中絹代は、大正・昭和期の日本の女優・映画監督。12月29日生まれとする文献も多いが、その日以前に提出された出生届に11月29日生まれと記されている。身長150cm。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。出演映画において世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てを受賞しており、三冠を達成している。また、日本で二人目の女性映画監督でもある。
【来歴・人物】
山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの末娘として生まれる。
1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。また、五所監督による日本初のトーキー映画、『マダムと女房』に主演した。下関なまりがあった田中だったが、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。
1952年に溝口監督が絹代のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、女優として完全復活を果たす。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。
映画監督業への進出を志し、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』(1953年)には「監督見習い」として加わり、成瀬自身から手ほどきを受ける。同年『恋文』を監督。日本で二人目の女性監督の誕生であったが、監督二作目の『月は上りぬ』の企画に溝口監督が反対したことから、溝口との仲を疎遠なものにしたといわれる。
その後も、木下惠介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍を続ける。その一方で、1970年の『樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。同年、紫綬褒章受章。
1974年に主演した、熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭銀熊賞芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
1977年3月21日、肺がんが転移した脳腫瘍のため67歳で死去。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』。最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である又従弟小林正樹監督が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
田中絹代(たなかきぬよ) (1909-1977) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
65歳の絹代は、昭和49年の映画『サンダカン八番娼婦』、テレビ『りんりんと』で、鬼気せまる演技を見せ、観客を感動させた。『りんりんと』が放映された翌朝、脚本家の倉本聡が電話すると、田中絹代のさけび声が聞こえた。
「ああ倉本さん 倉本さん! ほめられました! みなさん感激して下さいまして田中の電話は鳴りっ放し! みなさんインテリアの方々で。……」(倉本聡『さらば、テレビジョン』)
昭和51年のNHK連続ドラマ『雲のじゅうたん』に彼女はナレーターとして主演したが、その途中9月ごろ愛猫のエサを階に鎌倉駅のデパートにいったとき、足がよろめいて転んだ。それ以来吐き気や頭痛を訴えはじめ、自宅で横になっていることが多くなったが、不調をおして『雲のじゅうたん』総集編のナレーターも無事録音した。
その年の11月末、日本テレビ『前略おふくろ様』の撮影で倉本が立ち会ったとき、しかし田中絹代はすでに異常を呈していた。倉本は書く。
「その日の仕事はめちゃくちゃだった。辛(つら)いことだが田中さんさんはもうセリフを云うことが出来なくなっていた。しかし田中さんはよくしゃべり、よく笑った。いや、正確に云ってしまうなら、異常に、と表現すべきだろう。田中さんは明らかに精神の均衡を失っていた。何でもないことにプッと吹き出し、かと思うと急にギュッと口を閉じ、更に突然すさまじい口調で人の悪口を次から次へ云った。麹町から代々木の稽古場へ一緒の車で向う中でも、田中さんは一人激しくはしゃぎ、激しく怒り、そして笑った。
僕は田中さんに懸命に合わせながら、どうしてこんな田中さんを(テレビに)引っ張り出すようなことをしたのか、錯乱の中で後悔していた。田中さんの背に手を廻して鎮めよう鎮めようとさすりながら、熱い塊(かたまり)を必死に抑えた。田中さんの身体は異常に小さく、僕の腕の中にすっぽり入った。(中略)
激しい神経的躁状態が田中さんの内部からほとばしっていた。『あいつは何だ』とか、『あのヘタ監督が』とか凄じい表現が機関銃のように田中さんの口から奔走(ほとばし)り出た」
暮の27日、彼女はついに本郷順天堂病院に連れて逝かれ、翌52年1月入院そた。彼女自身は聞かされなかったが、病名は脳腫瘍であった。
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田中さんは既に口がきけなかった。それでも壁のレリーフ(51年度の芸術祭最優秀賞として彼女主演の『幻の町』が文部大臣から受賞した盾のレリーフ)を指さし、そして必死に笑おうとされた。でもその笑いはすぐに涙に変わった。田中さんは自分の袖をまくってみせた。何か仰(おっしゃ)ったが、ききとれなかった。その二の腕のあまりの細さに僕は何も云えなかった。田中さんは自分のその腕の細さを窓の光にかざすようにし、永いことじっと見つめておられた」
最後には、眼も見えなくなった。痰(たん)がつまって苦しむので、のどに穴をあけた。
3月21日午後2時15分、彼女は順天堂病院で息をひきとった。
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その翌日の夕方、倉本ははじめて田中の鎌倉の家を訪れた。
「――その部屋はひどく寒かった。寒いのに暖房の設備が殆どなかった。寒い上にやたらに暗かった。(中略)洋間に続く4畳半があり、そこに小さな置きごたつがあった。こたつのすぐ脇に電話があったので、田中さんはいつもここにいたんだなと判った。古びたテレビが1台あったが、驚いたことにそれは白黒テレビだった。それがたったの1台きりだった」
40年間田中につきそい、彼女がボディさんと呼んでいた老優隼新吉はべろべろに酔い、泣くように話しかけた。
「先生ごらんよ。ここにいたんだよ。田中絹代はいつも独りでね。俺がたまに来るとこの暗い部屋で、こたつに当たって頭かかえてんだ。両手でこうやってさ、電気もつけずにさ、田中絹代はいつも独りで、頭抱いて坐ってんだ。え、判りますか。天下の田中絹代がですよ! 頭抱いて坐ってるんですよ!」(倉本聡『さらば、テレビジョン』)
築地本願寺の葬儀には、しかしカッポウ着姿といったおばさんたちをふくめファン2000人が集まり、みな焼香台の上に100円玉を置いていった。ああ、これこそがファンが、昭和期最大の映画女優田中絹代に捧げた最高の勲章ではあるまいか。――この金は遺骨とともに墓地に埋葬された。
死後に「楢山節考(ならやまぶしこう)」と「愛染かつら」が再上映された。映画が終わると劇場内には期せずして万雷の拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。

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