じじぃの「人の死にざま_388_与謝・蕪村」

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与謝蕪村作 「紅白梅図屏風

美の巨人たち 与謝蕪村紅白梅図屏風 2014年4月26日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
今日の作品は、与謝蕪村作『紅白梅図屏風』。縦167センチ、横286センチ、4曲の屏風です。
京都のかつての花街・島原にある揚屋「角屋」の中に作品はあります。角屋の建物も、蕪村の屏風も重要文化財。金箔地に描かれた4本の梅の木は、隣同士の木々が重なり合い、複雑な構図になっています。根元から分かれた幹は影絵のよう。そこから伸びる枝先には、可憐な白梅が咲き誇っています。黄金に映える白梅の白。傍らにはつぼみの紅梅が1本だけ。白と紅の絶妙なバランス・・・そこには多くの謎が潜んでいました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/140426/index.html
与謝蕪村 ウィキペディアWikipedia)より
与謝蕪村は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
【経歴】
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。
【作家論】
松尾芭蕉小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
【後世への影響】
蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られ、『俳人蕪村』(現在は講談社文芸文庫)がある。旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。
蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗

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『持たない暮らし』 下重暁子/著 中経出版 2008年発行
何もないという自由 (一部抜粋しています)
ベストセラーになった『清貧の思想』(中野孝次著・草思社)には、良寛のほかに芭蕉や蕪村、西行などが出てくる。この人たちは、俳人であり、歌人であり、そして旅人である。
旅人は物に縛られない。今の時代と違って宅配便もなければ、せいぜい駕籠か馬に乗ることはあっても、おおむね徒歩である。
重い荷を持っては旅ができない。最小限の必要なものだけを持って旅を続ける。シンプルにならざるを得ないわけだ。
行く先々で泊めてくれる家があったりもしたのだろうが、旅の険しさは尋常ではなかったはずだ。山形県の月山で芭蕉の超えた山道を見たが、鋭く切り立った峯などを鎖づたいに超えていて、芭蕉忍者説も信じたくなる。
奥の細道』をはじめ、芭蕉は旅に生き、旅に死んだ。その道すじは、東北から江戸、関西におよぶ。
芭蕉に憧れた蕪村は、芭蕉ほど遠くへ旅はしないが、江戸にいても心は旅をしていた。
 月天心貧しき町を通りけり
蕪村の句である。貧しい人々の住んでいる町も、月が渡っていくことで豊かに明るくなる。月はみな平等に照らす。
月の渡る広くて大きな世界、蕪村の心は月とともに旅をしている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
蕪村(ぶそん) (1716-1784) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
晩年京都室町綾小路に住んでいた与謝蕪村は、天明3年9月、宇治に茸(きのこ)狩りにいったが、それ以来健康がすぐれなくなった。それでも10月大阪へいったが、途中淀川の夜船で冷え切ったせいか烈しい腹痛を起し、大阪で一応回復したが、帰京してからまた病床に臥してしまった。
このあたりの病状は芭蕉に似ているが−−病中彼は「どうもおれは、夢は枯野をかけめぐる、といった心境にははいれない」と、門人たちに笑っていった。
12月半ばごろからはげしい下痢がつづき、もはやだれの眼にも長くはもつまいと思われた。門人がそれとなく遺言をきくと、
「いや、別にいい残すことはない。若いころの漂泊の苦労にくらべれば、いまこうして京で医者にかかり、みなに看病してもらっているのはかえって安楽なことだ。ただ離縁されて戻ってくる娘のくのが心がかりだが、しかしいまさらそんなことを案じても、かえって観念の妨(さまた)げになろう」
と、いった。
24日夜、急に弟子の呉春を呼んで、「病中の吟がある。書いてくれ」と、いった。
 しら梅に明(あ)くる夜ばかりとなりにけり
それが蕪村の最後の句であった。まったく辞世らしくないどころか、純粋に「詩」に生きた蕪村らしい。
25日暁に死んだ。その死をきいて、上田秋成は詠んだ。
 かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹(ふい)て
後代芭蕉とならび称された蕪村の句集は、しかしほとんど散佚(さんいつ)し、明治中期以降、正岡子規たちが苦心惨澹探索して蒐集しはじめ、ほぼ完全なものが編まれたのは大正末期に至ってのことであった。蕪村は死後140年近くも、俳句の世界に完全な姿では存在しなかったのである。

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与謝蕪村の言葉
「得たきものは強いて得るがよし」

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与謝蕪村 Google 検索
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