じじぃの「人の死にざま_366_高峰・譲吉」

高峰譲吉 - あのひと検索 SPYSEE
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プロジェクトJAPAN 「化学製品の開発から新しい事業を興した 高峰 譲吉」 動画 NHK
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高峰譲吉 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
タカジアスターゼ発見の7年後、医学界の大発見と言われたアドレナリンを発見した。これは、「理工学部門での電信電話の発明に匹敵する」とか、「アドレナリンなくして医学なし」と言われるほどの「世紀の大発見」であった。譲吉はこれにより、富と名声を手に入れ、アメリカで最も著名な日本人の一人となった。
1922年7月22日、高峰譲吉は67歳で人生を終えた。ニューヨーク・ヘラルド紙は社説で、「米国は得がたき友人を失い、世界は最高の化学者を失った」と書いて、彼の業績を称え、その死を惜しんだ。アメリカ人が彼を称えたのは、その成功と富のためばかりではない。その志の高さと高潔な人間性に対する評価であった。
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-takamine.htm
サムライ 高峰譲吉 東京ギンガ堂 オフィシャルホームページ
http://www.tokyo-gingado.com/details/samurai.html
高峰譲吉 ウィキペディアWikipedia) より
高峰譲吉嘉永7年11月3日(1854年12月22日)-大正11年(1922年)7月22日)は、日本の科学者、実業家。工学博士・薬学博士。富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞。
【経歴】
1854年富山県高岡市漢方医高峰精一の長男として生まれる。
1865年(慶応元年)、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都の兵学塾、大阪の緒方塾に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。
1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年アメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。帰国後の1886年、専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年に結婚、1890年に渡米しアメリカへ永住することになる。
1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。
譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。
【その他】
ワシントンD.C.ポトマック川にある美しい桜並木は、1912年に東京市長尾崎行雄とともに高峰譲吉によって寄贈されたものである。高峰譲吉は後に土地を高岡市に寄付、同市では生家跡を現在高峰公園として整備し、毎年同日時 生誕祭が行われている。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
高峰譲吉 『日本科学の先駆者 高峰譲吉アドレナリン−発見物語』岩波ジュニア新書 江戸の科学精神の商、「舎密の申し子」の波乱万丈の生涯 【執筆者】竹中朗 (一部抜粋しています)
貴殿も昨日、彼のお世話になったかも・・・・高峰の発見したジアスターゼは「吾輩は猫である」に登場以来、今日まで胃腸薬の代表選手。しかも彼は日本酒醸過程における画期的な除菌法も開発しているのだから、飲んべえの恩人右代表のような人物である。いやいや、それどころではない。アドレナリンという誰もが聞いた事のある物質を発見したのも、また化学肥料を日本で初めて開発したのも彼。その他もろもろ農業から薬学、醸造、医学まで、日本の近代化の中で、化学というものがじっとに効能を発揮する場面全てに高峰の姿があるが如しだ。そして忘れてならないのは、彼の父(加賀藩御殿医)の師が坪井信道であり、さらにその師が宇田川玄真であるという事実である。江戸期以来日本の科学精神の底流に流れる「舎密(せいみ:化学)」探求の蓄積は、彼の頭脳において一気に花開いたのであった。設立した会社が倒産したり、アドレナリン発見の名誉をアメリカ人科学者に横取りされたりと、実際は波乱に満ちていた彼の人生を「舎密の申し子」として俯瞰するとさらに興趣は尽きない。
さて、その生涯を伝える電気は過不足なくまとまられたのが数点入手できるが、若年層向けに噛み砕いて語られた本がコンパクトながらも要点を押さえており非常に有益である。なおアドレナリン発見の経緯にはもう一人の日本人協力者が絡んでおり、高峰と彼と関係については今は諸説ある事を申し添えておきたい。

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