フレデリック・ホプキンス - あのひと検索 SPYSEE
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Frederick Gowland Hopkins 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3y5k4J407w4
鈴木梅太郎
ビタミンを最初に発見したのは鈴木梅太郎か、それともフンクかをめぐり、長いあいだ論争がありました。鈴木とフンクとは交流があり、どちらかというと鈴木の手法をフンクが追随する形で研究が進められた形跡があります。そのこともあって、現在では鈴木のほうが数ヵ月ほど早かったといわれています。
しかし、のちにビタミンの発見をめぐる研究でノーベル賞を授与されたのは、この2人ではありませんでした。
インドネシアのバタビア(ジャカルタ)の病理学研究所長だったクリスチャン・エイクマンと、ケンブリッジ大学教授で生化学の分野で多大な功績を残したフレデリック・ホプキンスです。
http://www.h7.dion.ne.jp/~kenko21/sub4suzukiumetarou.html
フレデリック・ホプキンス 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Frederick_Gowland_Hopkins_nobel.jpg/225px-Frederick_Gowland_Hopkins_nobel.jpg
フレデリック・ホプキンス ウィキペディア(Wikipedia)より
サー・フレデリック・ガウランド・ホプキンス(Sir Frederick Gowland Hopkins, 1861年6月20日 - 1947年5月16日)は、イギリスの生化学者。メリット勲賞勲爵士(OM)、王立協会フェロー(FRS)。1929年、ビタミンの発見の業績によりクリスティアーン・エイクマンと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。また、1901年にアミノ酸の一つであるトリプトファンを発見した。
イングランド・サセックスのイーストボーンに生まれ、ロンドン大学、ガイ病院医学部(キングス・カレッジ・ロンドン)で学んだ。1914年にケンブリッジ大学の生化学教授に就任し、神経化学の開拓者として知られる Juda Hirsch Quastel などを教えた。
1929年、ノーベル生理学・医学賞をクリスティアーン・エイクマンと共に受賞した。受賞理由は、現在ビタミンとして知られる特定の微量粒子が健康の維持に必須であることの発見。また、彼は筋肉の収縮が乳酸の蓄積を引き起こすことも発見した。
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『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』 杉晴夫/著 ブルーバックス 2013年発行
エイクマンとホプキンスのノーベル賞受賞 (一部抜粋しています)
1929年、オランダのエイクマンは「抗神経炎ビタミンの発見」により、また、英国のフレデリック・ホプキンスは「成長促進ビタミンの発見」により、いずれもノーベル生理学・医学賞を受賞した。だが、彼らの受賞にはさまざまな物議を醸すものであった。その理由をあげてみよう。
栄養学上では、ビタミンなどの微量栄養素の発見は以下の段階を経ておこなわれる。
(1)ある飼料(食事)が、実験動物(人間)の健康に害があることを発見する。
(2)その飼料(食事)に新たにある食物をつけ加えると、動物(人間)が健康を取り戻す。
(3)新たにつけ加えた食物中に未知の栄養素があることを指摘する。
(4)この未知の栄養素を食物から単離し、化学物質を明らかにする。
(5)さらにこの栄養素の化学構造を決定し、化学的合成を可能にする。
ビタミン欠乏症が原因不明の難病だった時代には、とりあえず(1)と(2)の段階で難病を克服し、さらに(3)の段階にも実質的には達していたと考えてよい。またマッカラム(米国人)の場合には、1914年にビタミンAを、1921年にはビタミンDをそれぞれ脂溶性物質として発見していたので、いちはやく(4)の段階に達していた。
これに対してエイクマンは、脚気を治す物質が米ぬか中にあることは指摘したが、それは栄養素ではなく、解毒作用を持つものと考えていた。したがって彼の発見は(1)(2)の条件は満たすが、(3)の条件を満たしておらず、その意味でビタミン発見者とは認められない。ただしエイクマンはのちに彼の自l中券を引き継いだグレインズの、米ぬか中の物質が解毒物質ではなく脚気を治す物質であるという意見に同意してはいる。
また、ホプキンスの場合は栄養素に興味を持ち、ラットの実験によりミルクに成長促進因子が含まれているという結果を得て、論文を発表している。しかし、有名な彼の実験は、その後、誰が試みても結果が再現されなかった。つまり、彼のノーベル賞受賞対象となった実験には、なんらかの理由から誤りがあったのである。したがって現在では、エイクマンとホプキンスの名を栄養学におけるビタミン発見者のリストに見つけることはできない。一方でオランダのペケルハリングは、ホプキンスよりも1年早く同様の実験をおこない、ミルク中に成長促進因子が存在することを発見している。だが彼は論文をオランダ語で書いたため、英語圏の研究者に見過ごされてしまった。このためホプキンスは自分がノーベル賞を受賞したときに忸怩(じくじ)たる思いにかられたようで、受賞講演で「もしわれわれがペケルハリングの立派な仕事を当時知っていたら、どんなに幸せだったでしょう」と述べている。
彼らが受賞した1929年の時点で、栄養学の巨人マッカラムはビタミンAとビタミンD発見の偉業をとうに成し遂げていた。これら2つのビタミン研究に残されていたのは(5)の段階、つまり化学構造の決定と化学合成のみであった。しかし、彼にノーベル賞が与えられることはなかった。賞の選考も人間の営みである以上は誤りも不公正もつきものだが、マッカラムが選に漏れたのはおそらく、当時、ノーベル生理学・医学賞は欧米人のためのものだ、という暗黙のルールがあったからであろうと思われる。
事実、賞が1901年にスタートして以来、1933年にモーガンがショウジョウバエの染色体の研究で受賞するまで、生理学・医学賞においては米国人の受賞者は皆無であった。また、わが国でもアドレナリンを発見した高峰譲吉、タール発ガンを発見した山極勝三郎や偉大な細菌学者の北里柴三郎など、受賞にふさわしい面々が選に漏れたのは、やはりこの”暗黙のルール”によるといわれている。