じじぃの「人の死にざま_1173_セント・ジェルジ」

セント=ジェルジ・アルベルト - あのひと検索 SPYSEE
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ビタミンCの抗酸化実験 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=iQufdvfMXfk
Szent-Gyorgyi Albert 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OjQXGmd7MBA
Albert Szent-Gyorgyi

狂ったサルー人類は自滅の危機に立っている!
A・セント=ジェルジ博士著 國弘 正雄訳
この本は、ビタミンCの発見、筋肉機能の解明など、数々の画期的な業績で知られるノーベル医学生理学受賞の生化学者アルバート・セント=ジェルジ博士が、人間、とくに次代をになう若者への限りない愛情をもって地球文明の危機を訴えた二つの著作「狂ったサル」(The Crazy Ape, Philadelphia Library, 1970)と「未来とは何か」(What’s Net?, Philadelphia Library 1971)を第一部、第二部とし、その波乱にみちた半生を語った日本(NHK)での講演「私の歩んだ道」(1969)をNHKの承認を得て付録に加え、一冊としたものである。
https://docs.google.com/document/d/1X_Qh8Y25pbgKkPonwHLNI9l3aeJtfbX8O8cCz940KYk/edit
セント=ジェルジ・アルベルト ウィキペディアWikipedia)より
セント=ジェルジ・アルベルト(Nagyrapolti Szent-Gyorgyi Albert、1893年9月16日ブダペスト - 1986年10月22日ウッズホール)は、ハンガリー出身のセーケイ人でアメリカ合衆国に移住した生理学者。ビタミンCの発見などにより、1937年度ノーベル生理学・医学賞を受賞。筋肉の研究などでも知られる。ハンガリー語では、姓は発音上はtが脱落してセンジェルジのように発音される。英語やドイツ語などでは名-姓の順に、Albert Szent-Gyorgyiとも表記される。
【略歴】
1931年にはコロジュヴァールからセゲドに移転した王立フェレンツ・ヨージェフ大学(現在の国立セゲド大学)に職を得、ここで研究員と共に地元特産のパプリカから大量精製した"hexuronic acid"が構造的にはL-アスコルビン酸であること、またこれが以前から知られていた抗壊血病因子であることを明らかにし、ビタミンCと命名した。同時に細胞呼吸の研究を続け、フマル酸などが呼吸反応(のちにTCA回路と呼ばれる)で重要な段階をなすことを発見した。1937年、これらの業績(生物学的燃焼、特にビタミンCとフマル酸の触媒作用に関する発見)によってノーベル生理学・医学賞を受けた。
壊血病 ウィキペディアWikipedia)より
壊血病(かいけつびょう、英: scurvy、独: Skorbut)は、出血性の障害が体内の各器官で生じる病気。成人と小児では多少症状が異なる。
ビタミンCの投与を行うことによって治療できる。

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『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』 杉晴夫/著 ブルーバックス 2013年発行
ビタミンC発見をめぐって (一部抜粋しています)
1918年、エール大学のメンデルらは、マッカラムが命名していた脂溶性A因子(ビタミンA)と水溶性B因子(ビタミンB1またはサイアミン)をモルモットに与えても、壊血病が起こることを示した。この実験結果をもとに英国のドラモンドは、これらとは別に抗壊血病因子となる物質が存在すると考え、これを「水溶性C因子」と呼ぶことを提唱した。
しかし、マッカラムは当初、この提唱に不同意であった。マッカラムはもっぱらネズミを実験に使用していた。ネズミには壊血病は存在せず、この病気の研究には適さなかったため、ドラモンドの考え方が理解できなかったのである。栄養学の巨人が犯した、珍しい誤りであった。
ドラモンドはさらにフンクが提唱していた「ビタミン」という呼称を用いて、これまでのA因子、B因子、C因子という呼び方に代えてビタミンA、ビタミンB、ビタミンCと呼ぶことを提案し、これが広く受け入れられた。
この時点で、未知のままであった抗壊血病因子(または水溶性C因子)にビタミンCの名が与えられたのである。あとは誰がこのビタミンを単離・同定するかであった。
ロンドンのリスター研究所では、ポーランド出身のツェルバがモルモットを使ってレモンジュース中のビタミンCの単離に挑戦した。彼はクエン酸などの有機物の酸は求める物質ではないことを明らかにし、抗壊血病因子を含む成分を之鴬宿することに成功した。
一方、米国ピッツバーグ大学のチャールス・キングも、レモンジュースからビタミンCを単離する研究に取り組んでいた。彼は1896年に生まれ、同大学を卒業後、コロンビア大学でモルモットを使ったビタミンC研究法を学び、1927年、母校に戻った。キングはビタミンCがブドウ糖ほどの低分子化合物であることをつきとめた。
このほかにも、世界各地でビタミンC発見競争が展開されていた。
ここで登場するのが、20世紀最大の生化学者の一人に数えられるアルベルト・セント・ジェルジである。ここでは彼の多岐にわたる仕事のうち、ビタミンC発見のみを述べることにする。
セント・ジェルジはハンガリーの貴族の血をひくブタペストの地主の家に生まれた。ブタペスト大学医学部を卒業し、欧州各地の大学を転々としたのち、オランダのグローニンゲン大学の生理学教室に勤務した。理解ある教室主任のハンブルガー教授は、彼に自由なテーマで研究することを許してくれた。
ここでセント・ジェルジは、レモンジュース中には強い酸化作用を過酸化酵素があることに注目した。過酸化酵素の存在は、ベンジジン反応という化学反応で調べられる。ベンジジンは無色の物質だが、酸化されると濃青色になる。ところが彼は、ベンジジン溶液をレモンジュースに滴下すると、濃青色になるまでに時間的な遅れがあることに気づいた。そこで彼は、レモンジュース中には酸化を遅らせる物質、つまり還元物質が存在しるのではないかと考えた。ここから、彼の考えは飛躍した。それはまさに、天才に特有の発想の飛躍であった。
顔色が青色を呈する、アジソン病という病気がある。その原因は、副腎の機能が衰えることにある。すると、正常な副腎にはレモンジュース中に含まれる酸化を遅らせる物質のような、顔色を白くする還元物質が含まれているのではないか。
そうひらめいた彼は、ウシの副腎のしぼり汁にベンジジンを滴下してみた。予想通り、青色の発色は著しく遅れて起こった。彼は副腎からこの還元物質を純粋に近い形で取り出すことに成功し、1926年、これまでの結果を論文として発表した。
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実はこの物質こそ、ビタミンCそのものだったのである。だがさすがのセント・ジェルジも、当時、ビタミンには関心がなかったので、この大発見にまだ気づいていない。
ところで、彼が招かれたケンブリッジ大学は予算や設備が十分でなく、ヘキスウロン酸の構造を決定するために十分な量の結晶を得ることは困難であった。そこで彼は米国ロチェスターのメイヨー研究所に依頼して十分なヘキスウロン酸の結晶を手に入れ、バーミンガム大学のハワースにその一部を送って、構造決定を依頼した。
1930年、セント・ジェルジは母国に新設されたセゲド大学の医化学教室に迎えられた。ここで彼は、のちにナチスの手を逃れて米国に亡命するまで、多くの研究を成しとげるのだが、着任早々、米国のキングの下でビタミンC単離の研究に参加していた、スワーベリというハンガリー人の若者の訪問を受けた。セント・ジェルジは彼に、ヘキスウロン酸に壊血病の予防・治療効果があるかどうか調べるよう依頼した。つまり、彼が結晶化した物質がビタミンCかどうか調べようとしたのである。
はたして、ヘキスウロン酸を1日に1mg、動物に与えれば、壊血病を予防できることが確かめられた。抗壊血病因子、ビタミンCは、ヘキスウロン酸そのものだったのである。セント・ジェルジとスワーベリは1932年、連名で「抗壊血病因子としてのヘキスウロン酸」と題した論文を「ネイチャー」誌に発表した。

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