じじぃの「人の死にざま_362_種田・山頭火」

種田山頭火 - あのひと検索 SPYSEE
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濁れる水の流れつつ澄む 松山 動画 YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/stream/sp/meigen/meigen13.htm
種田山頭火No1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gOQkhnK-VQ4
種田山頭火No2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IV8oYkjCxiM
種田山頭火
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NHK松山放送局 「濁れる水の流れつつ澄む」 2012年11月2日
全国を放浪しその生涯を四国で終えた、俳人種田山頭火山頭火が詠んだ1万を超える俳句は現代を生きる人たちの道しるべになっている。死の1か月前に詠んだ句が「濁れる水の流れつつ澄む」。酒に溺れ、自殺を試みたこともある「濁った」人生が、四国を旅しながらなぜ「澄んだ」と思える境地に達したのか。俳優・竹中直人が、山頭火を演じながら四国各地でその足跡をたどる。そして山頭火の俳句に込められた魂の言葉を見つめる。http://www.nhk.or.jp/matsuyama/eight/detail_program_04477.html
『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
10月10日−種田山頭火 (俳人
管笠をかぶり、墨染め衣を身にまとい、放浪しながら句作に努めた僧。山頭火は同じ俳人でも芭蕉や蕪村といった人とはずいぶんと印象が違う。
いわば世捨て人だった。「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と彼は日記にしたためているが人生をどこか醒めた視点で見ている人だった。
1882年、山口県で生まれた山頭火は1902年に早大文学部に入学するも中退し、1913年に荻原井泉水に師事、そして25年に出家得度し、僧侶となっている。
呑んだくれの生活破綻者。乞食坊主、破壊坊主と言われ、背をかがめて日本中をさすらった山頭火
尾崎放哉同様、彼もまた現代の視点から判断すれば人生の敗北者と捉えられるかも知れない。
死に場所を探す旅ではなかったのかと言われた種田山頭火の放浪人生。人間、年をとればとるほど、前向きとか希望とか、頑張りましょうなんてモノが一切、無意味なものに見えてくることがある。
≪どうしようもない私が歩いている≫一万句に及ぶ山頭火の中の一句だが彼の人生観の一端がのぞける句ではないだろうか。
人生なんてシャカリキになろうとしょせんはなるようにしかならないものさ。しょせんこの世は仮住まい。やがて誰もが墓の下。山頭火の背中はそんなふうに語りかけているように私には思えるのだが・・・・。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
種田山頭火(たねださんとうか) (1882-1940) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治25年、10歳のとき、母親が井戸へ身を投げて死んだ。ヤング治験防府の大地主であった夫の政治狂いと家庭乱脈のためであった。
それは少年種田正一にとって運命的な衝撃で、人生後半の彼の放浪は、一面、母の霊を追う旅とでもいうべきものであった。
大正5年、当時運送業を営んでいた家が破産し、父は行方不明になった。彼は熊本に逃げ出して額縁(がくぶち)店をひらいたが、彼みずから「なまけもの也(なり)、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり」と自嘲したように、通常の生活をいとなむ能力も意欲もない男であった。
大正8年、彼は妻子を捨てて上京し、転々と職を変えて空しい独身生活を送ったり、また熊本に帰ったりしたが、大正14年に熊本で、泥酔して電車を停める事件を起し、これを機に僧となり、一寺の堂守(どうもり)となった。
そして、大正15年4月、44歳で一鉢一笠の乞食僧として放浪の旅に出た。それは尾崎放哉がやはり放浪の果てに小豆島で餓死に近い死をとげた同年同月のことであった。
種田はすでに山頭火という俳号を持ち、放哉同様、自由律の句詩「層雲」の同人であったが、終世2人は相逢うことはなかった。
 分け入っても分け入っても青い山
 うしろ姿のしぐれてゆくか
 何を求めて風の中をゆく
 鉄鉢の中へも霰(あられ)
 この旅、果てしもない旅のつくつくぼうし
しかし、この旅の間も彼はカルモチン(催眠剤)自殺をはかったり、しばしば泥酔して留置場にいれられたり、女を買ったりした。
昭和7年12月31日、50歳の彼の日記「昭和7年度の性欲整理は6回だった。内2回不能、外に夢精2回、阿、阿、阿、阿」
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山頭火は放哉と異なり、完全に人の世や、なまなましいおのれの欲望を断ち切れないで苦しんだ。
昭和14年12月15日、ついに旅に疲れた彼は、俳句の知友の世話で、最後のすみかを松山御幸山のふもとの「一草奄」に得た。
その翌年の彼の句。
 おちついて死ねそうな草萌ゆる
その年の10月2日、彼は日記に書いた。
「この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくわえておった。犬からすなおに受けて餅の御馳走になった」
10月10日、一草奄で句会があった。俳人たちが集まると、山頭火は高いいびきをかいて寝ていた。酔っぱらって、昼間でも寝ていることはしょちゅうあるので、俳人たちはかまわず隣室で句会をひらき、11時ごろ、わざと起さず散会した。翌日になって、彼が死んでいるのが発見された。死因は心臓麻痺で、午前4時ごろ死亡したものと推定された。
彼はかねてから、「ころり往生(おうじょう)」を願っていたが、死にかただけは彼の望みのままになった。
山頭火は、「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と自嘲したが、この全てを捨てたアウトサイダーは、後年の何もかも管理された時代に生きる人々の中にファンを生んだ。

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