じじぃの「人間臨終図鑑・人の死にざま!老いへの不安」

お墓

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
松永安左衛門(まつながやすざえもん) (1875-1971) 96歳で死亡。 (一部抜粋しています)
若き日、人生は大学卒の免状で勝負するものではない、として、福沢諭吉がまだ在世中の慶応義塾を飛び出し、波乱万丈、幾変転の実業生活ののち、次第に電力業界の大立者となる一方、「耳庵(じあん)」と称する大茶人ともなった松永安左衛門は、戦後、老躯をひっさげて、日本の電力再興のために、九電力分割体制、電力料金値上げの政策を、天下を敵として強引に押し通し、「電力の鬼」と呼ばれた。
昭和40年、なお電源開発のために疾走する90歳の松永の風貌を、大宅壮一は次のように描写する。
「まず眼につくのは、そのりっぱな耳である。長く、そして広い。それが真横に張り出しているから、いっそう大きく見える。瞼にかぶさる白く長い眉毛、笑うと深いシワの中に細く隠れてしまう眼、髪ももちろんまっ白、が、短く刈りあげたそのラインは意外に若い。イヤホーンのコードを指先にまきつけてはほぐす。年を経た大木を思わせるような手である」
彼はこの年の正月、1句を作った。「初夢や若き娘に抱きつけり」
そして大宅に。女性との最後は77、8であったと告白し、こんなことをいった。
このごろ、よく若いとこの夢を見ますね。夢の中じゃ、完全なことができます。若い時だと、そういうときは夢精が起るでしょう。もう、それはありませんがね。しかし、実弾を撃った感じはする。……こんなことをいうと怒られるけれど、私は女は性器だという観念が非常に強いですね。女性を見ているうちの、この人のはどんなだろうな、という考えがずっと発展してゆく。……」
そして、「ふり返って見て、90年というと長いですか、短いですか」という大宅の問いに、
「長いですねえ。もうこれ以上生きたって馬鹿らしいという気がせんでもない」
と、答える。
しかし彼はなお電力業界の大ボスとして東奔西走の活動をやめなかった。また、ただの実業人でない証拠に、自分が傾倒するトインビーの『歴史の研究』の邦訳24巻を世に送り出した。
43年2月1日、93歳の松永安左衛門は、小田原の邸内を散歩中、立小便しているところを愛犬に飛びかかられ、ころんだはずみに左大腿骨を接骨して入院したが、病院で銅線吊引(ちょういん)の治療中、いちど大声で「痛い!」とさけんだだけで、あとは弱音をあげず、その後は汗をながしながし松葉杖による歩行訓練で回復した。しかし、「このことがなければ、まだ3年寿命がのびたはず」と側近者はいう。
昭和46年4月15日、夜半急に苦痛を訴え、未明に慶応病院に入院した。
入院後も、自分の関係する仕事の方向をきいたり決裁をしたりしていたが、6月15日未明から呼吸に異常を呈し、16日午前4時26分、灯の消えるようにこの世を去った。病名はアスペルギルス病といい、コウジカビの一種の菌が、皮膚、耳、眼、鼻、肺などに炎症性、肉芽腫性の病巣を作るという奇病であった。
人間も身体にカビがはえるほど生きればいうことはない。
彼は、昭和33年愛妻が死亡したときも葬式を出さなかったが、自分の死に際しても、無葬式、無戒名、無叙勲の遺言を残し、その通りにはかられた。

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『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』 春日武彦/著 朝日新聞出版 2011年発行
同じ年 より
この本(『人間臨終図鑑』山田風太郎/著)を前にすると多くの人は、まず自分の現在の年齢で死んだ人物にはどんな者がいるかを調べてみる。すると、老成したと思っていた人物や円熟したと思い込んでいた人物がもはや自分の歳で死亡していることに気付き、愕然となるのだった。昔と今とでは人生の区切りが異なるから必然的に我々自身の幼稚さや未熟さを痛感させられるわけだが、いずれにせよ自分の歳の重ね方に思い至らざるを得ないことになる。そのような仕掛けの書物なのであった。
わたしの現在の年齢である58歳で死亡した人物を調べてみると、シーザーとかマキャベリ杜甫菅原道真黒田如水尾形光琳岩倉具視黒岩涙香溝口健二高見順中川一郎といった人々が挙げられている。そして俳人種田山頭火(1882〜1940)も含まれていた。
あの<分け入っても分け入っても青い山>の山頭火である。放蕩の乞食僧であった彼の屈折した自意識過剰ぶりや、甘えとわざとらしさの混ざったトーンには、どこかしら晩年の諏訪優に通底したものが感じられる。言い換えれば、ストイックなものにあこがれつつもついにそのようにはなれず、中途半端に居直って世俗的な欲望を肯定する精神であろうか。散々に勿体ぶった挙げ句に、居酒屋は人生の縮図であるとか女の乳房は男の故郷だなどと「のたまい」かねないセンスでもある。
山頭火に限っては、彼のイメージと自分の年齢に落差は感じない(尾崎放哉の享年がわずか41であったことには意外感があるが)。しょうもない親父という点で、苦笑したくなるところがある。昭和15年10月10日、旅を終えて棲み付いた一草庵では句会が開かれていたが、山頭火は鼾(いびき)をかいて寝ていた。昼間から酔って寝ていることも多かったので、俳人仲間は彼を放置して句会に熱中し、「11時ごろ、わざと起こさず散会した。翌日になって、彼が死んでいるのが発見された。死因は心臓麻痺で、午前4時ごろ死亡したものと推定された」。
わたしは彼が旅の途中で商人宿みたいなところでひっそりと息を引き取ったと、そんな惨めな最期を漠然と想像していたので戸惑った。山田風太郎は、
  彼はかねてから、「ころり往生(おうじょう)」を願っていたが、死にかただけは彼の望みのままになった。
と書いているが、寂しがり屋の山頭火が、仲間たちの句会の傍らで死に通ずる眠りに落ちていたという事実こそは真に幸せなことだったのではないかと推測したくなる。孤独を求めつつも、結局は仲間と楽しく過ごすことに安心感を見出す精神の持ち主にとっては、理想的な死に方ではあるまいか。ちょっと羨ましい。

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どうでもいい、じじぃの日記。
「人は生きていたように死んでいく」のだそうだ。
山田風太郎(小説家)は古今東西の有名人(犯罪者や釈迦も含む)の死に際(臨終)の様子を亡くなった年齢別に書き記した。
ある人物にはいかに立派な功績を残していても、その名声をけなす文章も書いている。
気に入ったと思われる人物には、かなり詳しく書いている。
山田風太郎の考え方が反映されているのかもしれない。