じじぃの「人の死にざま_399_天草」

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天草四郎(熊本歴史・人物)
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天草四郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
天草四郎は、江戸時代初期のキリシタン
島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされる。本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。一般には天草四郎時貞という名で知られる。
【生涯】
肥後国南半国のキリシタン大名関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。益田家は小西氏滅亡後、浪人百姓として一家で宇土に居住したという。その生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
島原の乱勃発時は16才程度の少年で、十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて、炎の中で自害したとされる。実際には少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋や浪人たちで、彼はその象徴として祭り上げられた性格が強い。しかし、3万7000人とされる島原の乱の参加者が主と仰ぐカリスマ的存在であったのは確かである。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
天草四郎(あまくさしろう) (1621-1638) 17歳で死亡。 (一部抜粋しています)
寛永14年の秋に、虐政によって勃発した島原の百姓一揆は、幕府軍12万4000をもってしても、一揆軍の立てこもった原城を陥(おとしい)れるのに足かけ5ヵ月を要し、老中松平伊豆守信綱みずから出動するほどの大乱となったが、痩せ衰えた百姓軍がこれほど驚きべき抵抗を示した原動力の一つは、切支丹(キリシタン)信仰と、その首領であり、シンボルである天草四郎時貞という少年への信仰のゆえであった。
しかしその原城もついに翌寛永15年2月28日に陥落し、城兵は文字通り全滅した。四郎はすでに手を負って死んでいたのを、細川家の侍、陣佐左衛門という侍が首をとったといわれる。
四郎の母、教名マルタは前から幕府方に捕えられていたが、このとき城から運ばれてきた四郎と同じ年ごろの少年の首をいくつか魅せられても、「四郎は天から遣(つか)わされた子です。どうして首をとられることがありましょう。きっと天に昇ってしまったか、南蛮にのがれていったに相違ございません」と首をふっていたが、佐左衛門も持ってきた首を見ると、「やれ、こんなに痩せてしまったか、可哀や、さぞ苦労したことであろう」とその首を抱きしめて泣いた。
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彼の首は長崎へ送られて、さらし首になった。
幕府が一揆方の記録をすべて抹殺したために、天草四郎の名は伝説の世界の妖星のような印象を残したが、彼が実在してこれほどの大乱の中心人物であったことは事実である。

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